1.尼崎市西本町8の道標

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尼崎市西本町8−356、四辻の南東部に西を正面にして建つ
(西から来た中国街道が南に折れる)
尖頭型角柱 155x西面31x32p(頂高14p)(西面は根元高-4p)
N34.720482 E135.407853


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西面
┌─――――――――――――――――――――――┐
│右 大坂道                  │
└―――――――――――――――――――――――┘

南面
┌─――――――――――――――――――――――┐
│左 西ノ宮兵庫                │
└―――――――――――――――――――――――┘

北面
┌─――――――――――――――――――――――┐
│弘化三丙午歳 世   難平 梶宗 東新田 太藏│
│        話  道善 綿源 大物 豆九 │
│八月□建之    人 玉伊 綿五       │
└―――――――――――――――――――――――┘
(八月の下は、日扁に「文」でビン、旻と同意、秋の天を示す。)
(建つの下「之」は隷書と思われる。)

東面
┌─――――――――――――――――――――――┐
│発起主 竹屋儀右衛門             │
│世話元 同 卯之助              │
└―――――――――――――――――――――――┘


(弘化三年八月1日なら1846年9月21日月曜日となる)
(『尼崎の道標を訪ね歩く』平成27年荒木勉では24)
(元の位置は、竹屋新田村の村はずれの曲がり角とする資料もあるようであるが、
 明治の地図では、当辻は四辻となっており、100m程東の辻では東に道の無い三叉路であったようで、この何れに
 道標が建っていてもおかしくない。位置が変わっていないのであれば、中国街道はここで曲がっていたことになる。
 尼崎市史の城下の図では、此処から南に折れ、出屋敷の南で東に折れ、宮町へ進む様に書かれている。これに従えば
 道路拡幅などの近接移設を除き、道標の位置は変っていないと思われる。)
(行き先の彫りは非常に深く、西面「右」の一画目は7p、南面「左」の一画目は6pもある。)

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【1.道標を東に望む 【2.道標を南東に望む 【3.道標を北に望む 【4.北面上部拡大
 左(北)現国道2号へ  左(東)現商店街へ  左(西)から手前へ  旧暦八月は
 右(南)現出屋敷駅へ】  右(南)現出屋敷駅へ】  旧中国街道筋】  秋の空であるらしい】

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【5.尼崎の道標】

 2023/10/17 【訂正】
 東面の写真を差し替えと、
 上記『今昔マップ on the web』明治の地図参照のリンクを追加した。
 【追記】
 先日参加した、歴史博物館の西国街道リレーウォーク「旧中国街道沿いの道標と指定文化財」での解説でも「元
 位置を東とする説もある」との事であったが、『あまがさきアーカイブス』の「寛文十年(1670)頃尼崎城下絵図」
 (加地泰雄氏文書、道標よりはるかに古いが)を見ると、元の位置のままで良さそうに思える。私見としても、
 城下を通行させるより、外周道を勧める方が理にかなっているとしたい。
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