8.西宮市熊野町の地蔵道標

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西宮市熊野町6−8、東西の道に、南北の道が交わる四つ辻の南西部に北を正面に建つ
笠付角柱 97x25x25p(笠より上17p含む)(像部1.5p出張、彫込3p)(笠部幅44x44p、宝珠6xφ12p)
N34.744277 E135.371274


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北面
┌─――――――――――――――――┐
│(地蔵像) 為(六)□□     │
└―――――――――――――――――┘

東面
┌─――――――――――――――――┐
│(地蔵像) 左りに□□      │
└―――――――――――――――――┘

南面
┌─――――――――――――――――┐
│(地蔵像) 儀鳳         │
└―――――――――――――――――┘

西面
┌─――――――――――――――――┐
│(梵字キリーク) 以多津ら    │
│          やみの(夜) │
└―――――――――――――――――┘
(梵字キリークは、阿弥陀如来の種子か)
(「以多津」は「いたつ」の変体仮名か)


(『西宮歴史散歩案内マップ』市教育委員会、平成20年刊では、18)
(『西宮の道標』宮崎延光、昭和44年刊では、55。東、西面( )部は同書より。
 同書では、西面の梵字の下に、像が書かれているが、これは見当たらない。又、右、左、背面
 が混同していると思われる。又地図に記された位置をみると、五叉路の北西部になっており、
 これを信ずると、近接ではあるが移設されている事になる。
  東面の「左」の下は、「にしのみや」とする資料があるようで、
 もし、左西宮を示すなら、東から来た(すぐ東に武庫川渡し)守部からの道(伊丹道)がここ
 で南に折れ、西宮へと続いていたと思われる。
 確かに現在ではここを左折し、道なりに進むと、「甲子園短期大学」で道は無くなっているが、
 その西側にうまく続く様に思う。
  明治44刊地図では、東の尼崎市守部から武庫川を渡り、当四辻で伊丹道(西宮道)は南西に
 折れている。西に直進すると、上瓦林村の集落に入り込んでしまい、道標を建てる必要は十分
 に認められ、現在置かれている南西角で、上記で東面とした面が、少し時計回りに廻されて、
 置かれている事にも符合する。
  現在では、ブロックに囲まれ北が正面風になっているが、案内としては東面が主であろう。
 もし、前述の書にあるよう、北西に位置した場合も、設置の方向は、現状で一致する。)

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【1.道標を東に望む 【2.道標を北に望む 【3.道標を南に望む 【4.祠内道標北面
 右端白いブロック中に建つ  右、武庫川堤防へ  奥(南)西宮へ  正面、左、裏に像を刻む
 奥(東)武庫川土手へ】  奥(北)荒木町へ】  旧道は緩く南折れか】  右面に梵字と御詠歌?】

東面
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【5.東面 【6.東面下部拡大
 上部に像がある  「左」右下に小さく「リ」
 下部埋没か不明】  「に」に喰込む「し?」】

南面
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【7.南面上部 【8.南面中部 【9.南面下部 【10.下部(東側から撮影)】
 上部に像がある  像の下の文字  「儀鳳」とは不明】
 北面と同じか?】  「儀」とした】

西面
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【11.西面上部 【12.西面中部 【13.西面下部 【14.西面下部(南側から撮影)
 像がなく梵字  右「ツ」に似た文字は  「やみの」は良好  「多」の下は「津」とし、
 「キリーク」とした】  「以」とした】  その下剥離か】  続くは「ら、し、く」等か】

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【15.西面下部 【16.西面下部 【17.西面 下部 【14'.上14.にいたづら書きした】
 「以多津ら」か、意味が取れそうなのは「いたづらに」等か】

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【18.西宮南部の道標】
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