17.豊中市上新田3道標

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 2025/3月 訂正
 2025年現在多分元位置に近い場所に修復移設されている。写真を差替え記事を訂正する。
 念のため、旧内容を残しておく。

豊中市上新田3丁目3−1 旧新田小学校北側交差点南部に北西を正面に建つ。
(新御堂筋上新田高架橋下上新田東交差点(府道2号)の北東80m変則四つ辻南部。)
尖頭型角柱 52x北西面15.5x14p(頂高3p)(含、下部23p新石)
N34.798632 E135.496224


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北西面
┌──――――――――――――――┐
│右 くま            │
└――─―――――――――――――┘

南西面
┌──――――――――――――――┐
│為万人(講)          │
└――─―――――――――――――┘
(過去木杭に、講願主岸□とあった)

南東面
┌──――――――――――――――┐
│南無阿             │
└――─―――――――――――――┘

北東面
┌──――――――――――――――┐
│左 大坂            │
└――─―――――――――――――┘


(旧在所 勝尾寺街道・三国街道の合流点 大阪府文化財「旧新田小学校」北の角)
(『とよなか歴史文化財ガイドブック』2014年、市教委編では、三国街道を、目いぼの渡しから、高川沿いに
 北上し、服部緑地の東端を通り、吹田市の桃山台抜け、再び豊中市の新田で府道2号と合流する道としてお
 り、勝尾寺街道は、岡上の町から熊野町仏眼寺の南を通り、熊野町東で府道2号となり、上新田の東で山田
 街道と分かれ、箕面方面に進む道としている。)
(道標は新しい石の上に接着され柱状に復元されている。この位置で旧道を案内する向きに合わせて立てられ
 ているため、本来なら目につくように立てられる、名号「南無阿…」が南東面となり、横のフェンスも影響
 し見難くなっている。元の辻では見易い状況であったと思う。)
(道標西に建つ説明板を見ると、元位置は、現在地より30m北の、当時の新田小学校の北角にあったと図示
 され、道が付け変わっている様子が昭和28年航空写真を用いて説明されている。図では、東に分岐する道が
 大坂方面となり、現北東面が北面して置かれていたと読み取れる。現在の地図から
N34.798844 E135.496238
 辺りと思われる。「右くま」は「右熊野田村」とし、現府道2号を南西に進むことを案内するものであろう。
 明治の地図でも、旧辻は三叉路であり、「入」字型をしている。この南部に、現北西面をそのまま北西面し
 て置けば、案内に不整合は起きない。)
(北東面「左大坂」は、現行の新御堂筋に相当する経路を示すと思われ、これ又、問題はないでしょう。明治
 の地図では、下新田へと南下し、寺内集落の東を抜け、高川に架かる現新豊吹橋の三ツ辻までは一本道と思
 われ、その後は神崎川を、榎木か、目いぼの渡しか、或いは三国で越えれば、大坂へとなるであろう。)
(南東面の、「為万人(講)」は「為万人」の下に、言扁の「`」と、旁の上部らしきものが見え、「講」と
 みなしても良い。上記『ガイドブック』にある願主の同定には疑問も残るが、一応、その名前によく似た、
 箕面市の一基と比較してみる。
 石の大きさは、高さを除き、当道標が15.5x14p(頂高3p)で、箕面が15.5x15.5p(頂高4p)とほぼ同じ。
 筆跡は一部、「無」や「坂」が似ていないが、その他はよく似ていると思う。
 石質はどちらも花崗岩であろうが、同種とは思えず、摩耗の度合いは、当道標の方が進んでいる様に見える。)

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【1.道標を南西に望む 【2.道標を北東に望む 【3.道標を北西に望む 【4.道標北西を見下ろす
 右奥、熊野町へ  右小さく当道標  奥、旧道を上新田集落へ  下部の新石には
 高架は新御堂筋】  左奥、現府道2号津雲台へ】  右電柱手前辺り元位置か】  何も書かれず】

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【5.道標北東面拡大 【6.道標北西面拡大 【7.道標南西面拡大
 「左 大坂」  「右 くま」くまのだで  「為万人講」であろう
 その下は不明】  現、熊野町であろう】  願主に当たる部分か】

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【8.道標西の案内板 【9.案内板の左下図 【10.豊中北部の道標】
 2019年3月とあり  昭和28年(1953)の
 移設もこの時か】  航空写真と思われる】

 『ガイドブック』が言う、願主同定の為、箕面(左)と当道標(右)を比較してみた。
 左から「講名部」、「六字名号部」、「行先部」の順に並べた。
 行先にある「左」の字は明らかに異なるが、全体的に似ている気はする。
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【11.左が箕面、右が豊中、箕面六字名号下部に願主名「岸貞」が見える】


【旧内容】

豊中市上新田3丁目10−6 府道2号線から20m程東へ入った、上新田墓地の中の、
ほぼ南向きに建つ六体の地蔵の西(左)横に、南を正面に建つ
(説明の木杭が抜けた状態で、石垣に立てられており、道標自体は、移設されていると解説されている。)
尖頭型角柱 32x南面15.5x14p(頂高3p)(含、下部6pセメント付着部)
N34.800348 E135.497141


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南面
┌──――――――――――――――┐
│南無阿             │
└――─―――――――――――――┘

西面
┌──――――――――――――――┐
│為万人             │
└――─―――――――――――――┘
(横の木杭に、講願主岸□とある)

東面
┌──――――――――――――――┐
│左 大坂            │
└――─―――――――――――――┘

北面
┌──――――――――――――――┐
│右 くま            │
└――─―――――――――――――┘



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左横にある白木杭の説明
南面
┌────――――――――――――――┐
│    二00九年三月□□□□氏  │
│南無阿               │
│    当上新田墓地にて見っけられる│
└――─―――――――――――――――┘
(□…□は、発見者の名前であろう、略した。)

西面
┌────――――――――――――――┐
│    講願主岸□が建てたもの   │
│為万人               │
│    大坂道に三基存在する    │
└――─―――――――――――――――┘

東面
┌────――――――――――――――┐
│     横関街道で        │
│左大坂               │
│      大阪・天満へ      │
└――─―――――――――――――――┘

北面
┌────――――――――――――――┐
│     旧在所 旧 新田小学校角 │
│右くま               │
│     三国街道との分岐     │
└――─―――――――――――――――┘


(旧在所 勝尾寺街道・三国街道の合流点 大阪府文化財「旧新田小学校」北の角)
(『とよなか歴史文化財ガイドブック』2014年、市教委編では、三国街道を、目いぼの渡しから、高川沿いに
 北上し、服部緑地の東端を通り、吹田市の桃山台抜け、再び豊中市の新田で府道2号と合流する道としてお
 り、勝尾寺街道は、岡上の町から熊野町仏眼寺の南を通り、熊野町東で府道2号となり、上新田の東で山田
 街道と分かれ、箕面方面に進む道としている。)
(道標は深く埋められている様に見えるが、下部が遺失しており、スカート状のセメントが、6p程度の高さ
 で付けられて、土の上に置かれているだけで固定はされていない。説明の木杭も含めて仮設状態であろう。)
(木杭の説明通りなら、元位置は、上新田3丁目−3−1の、旧新田小学校の北角
N34.798608 E135.496190
 辺りと思われ、「左くま」が「左熊野田村」を指し、現府道2号を南西に進むことを案内するものであろう。
 明治の地図では、当辻は、三叉路であり、逆Y字型をしている。この南部に、現北面をそのまま北面して置
 けば、案内に不整合は起きない。)
(東面の解説にある「横関街道」は詳しくはないが、神崎川を吹田の榎木の渡しを通るようなので、北条町4
 丁目14で高川西堤防上の道(三国街道)から、東に分かれ、江坂、蔵人を通り、榎木橋を渡る現府道134号
 を示すものであるなら、三国街道へ進めと同義であり、大坂への解説としたものであろう。)
(同じく西面、「願主岸□」としているが、出典は不明である。
 そこで、「大坂道に三基」を手掛かりにすると、箕面市に「為万人講在中法界 願主岸貞」なる道標が、二基
 有るようで、「為万人」を「為万人講」とする事で、これを、同一の願主の根拠とされたものかと思われる。
 下部の遺失前に直接確認された上での、解説であれば良いが。
 尚、「為万人」の下に、言扁の「`」と、旁の上部らしきものが見え、「講」の可能性は高い。
  箕面市の一基と比較してみる。
 石の大きさは、高さを除き、当道標が15.5x14p(頂高3p)で、箕面が15.5x15.5p(頂高4p)とほぼ同じ。
 筆跡は一部、「無」や「坂」が似ていないが、その他はよく似ていると思う。
 石質はどちらも花崗岩であろうが、同種とは思えず、摩耗の度合いは、当道標の方が進んでいる様に見える。)

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【1.墓地を東に望む 【2.道標を東に望む 【3.道標を北東に望む 【4.道標を北西に望む
 右奥、墓地へ  白い木杭と地蔵の  六体の地蔵の左  奥左右は府道2号】
 左右、府道2号】  間に当道標】  更に左に木杭】

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【5.道標を西に望む 【6.元位置を南に望む 【7.豊中北部の道標】
 セメントの下は  瓦屋根が旧新田小学校
 土のみ、埋没部は無】  左奥(南)三国街道へ】

願主同定の為、箕面と当道標を比較してみた。左から「講名部」、「六字名号部」、「行先部」とした。
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【8.左が箕面、右が豊中、箕面六字名号下部に願主名「岸貞」が見える】

【旧内容 終わり】
文字ずれ時はブラウザの幅や「Ctrl」と「+」、「-」キーで倍率変更等して下さい。 ↑先頭へ