8.箕面市小野原東2の道標

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箕面市小野原東2−8 西からの西国街道が北東方向に進む三叉路の東部にある龍王堂の前に西を正面に建つ
ドーム型角柱 108x24.5x24.5p(頂高6p)
N34.83382 E135.51818


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西面
┌―――――――――――――――┐
│左 京ふしみ道        │
└―――――――――――――――┘

南面
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│享和二年戌年 施主      │
│    八月  弥三八    │
└―――――――――――――――┘

北面
┌―――――――――――――――┐
│(なし)           │
└―――――――――――――――┘

東面
┌―――――――――――――――┐
│(なし)           │
└―――――――――――――――┘


(享和二年八月1日なら、西暦1802年8月28日土曜日となる)
(『箕面のみちしるべ』箕面市教育委員会、平成三年刊、では、1)
(右側(東へ)の道は、一度下がるが、丘陵を越え茨木市下穂積へ続いている様で、この辻を西から来ると、
 直進となり、京へ行くには「左」の案内が必要となる。)
(前述の書では、施主弥三八(やそはち?)は何処の人か不明となっているが、やはりこの地の人であろう。
 他に、往時、此処に小庵があり、明治になり、茶店となったとあるが、現小堂との関係は書かれていない。
 現小堂は、堂前に「楠水龍王之地」の碑があり、額には「楠水龍王」とあり、楠正成が湊川へ出陣の折、水
 を賞味したとした井戸があるとも書かれている。
 北側に、春日神社の御旅所もあるが、茶店跡に小堂を造るとは考えにくいので、別の位置かも知れない。
 因みに、小堂の北側に喫茶店があるようで、これが明治の茶店なら、符合して良いのであるが、調べてはい
 ません。
  尚、江戸時代は、この地の西の新家より東は、嶋下郡となり、東の豊川辺りに一里塚があったようだ。)

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【1.道標を東に望む 【2.道標を北東に望む 【3.道標を西に望む
 奥(東)下穂積へ  奥、西国道を京へ  奥(西)今宮へ
 左、西国街道、京へ】  白い石柵が御旅所】  右手前、豊川へ】

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【4.道標を東に望む 【5.道標を北に望む 【6.道標上部、手前が西面
 後、楠水龍王堂  「…戌年」の下は  新舗装道に建つなど
 下部に埋没跡あり】  「施主」のくずし字】  近接移動はあるかも】

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【7.箕面市の道標】
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