5.茨木市宿川原町10門内南側の道標

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茨木市宿川原町10 東西に通る西国街道から北に分岐する逆T字路の南にある
宿川原西自治会館の門前に北を正面に二基が建ち、門内に更に二基が建つ
3/4.門内南側道標(門の西に一基、東に三基、東三基の内最も南)
角柱(上部折損) 78x西面23.5x24p(頂高5p)(基部33x27x26p含む)
N34.8344581 E135.5420133


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西面
┌────――――――――――――――┐
│   (そう)し寺         │
│(右)      道        │
│   (京) 大坂         │
└――─―――――――――――――――┘
(( )部は『わがまち茨木』より)

北面
┌────――――――――――――――┐
│(文化五戊辰極月日)        │
│(郡山駅子)供中建之        │
└――─―――――――――――――――┘
(( )部は『わがまち茨木』より)

南面
┌────――――――――――――――┐
│(なし)              │
└――─―――――――――――――――┘

東面
┌────――――――――――――――┐
│(なし)              │
└――─―――――――――――――――┘


(『わがまち茨木』(道標編)三版、教育委員会、平成19年刊では74)
(同書に、「昭和29年、豊川中学校…社会クラブ…拓本…によると、正面に「右 そうじ寺、京 大坂道」と2行に
 書き、左側面に「文化5年(1808年)戊辰極月日、郡山駅子供中 建之」とこれも2行に書いていた。」とあり、
 元位置を、藤の里二丁目で付近であったと思われる、としており、地図には
N34.837494 E135.540462
 辺りと思われる地点をマークしている。この地点であれば、現在の向きのまま建っていたと思われる。
 ただ、この場所を明治の地図で見ると、西から南へ屈曲はしているが、辻は見えず、道標を設置する必要は感じら
 れない、そこで、その南100m、現在の国道171号の交差点付近
N34.83675 E135.54045
 の三叉路、又はその西170m
N34.837621 E135.538521
 の三叉路、或いは更に西へ180mの道祖本へ分岐する道
N34.837606 E135.537237
 の三叉路、辺りが候補地になるのではないかと思う。)
(文化五年12月1日なら、西暦1809年1月16日月曜日となる)

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【1.道標を東に望む 【2.道標を西に望む 【3.四基道標を北に望む
 奥(東)すぐ椿本陣  奥(西)小野原へ  右端が当道標
 左(北)勝尾寺へ】  右、勝尾寺へ】  背の高い二石は門柱】

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【4.道標西面拡大 【5.道標上部(下西面)
 「し寺」か「じ寺」  彫られた文字の
 かは判定し難い】  深さが良く分かる】

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【6.茨木南部の道標】
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