22.高槻市富田町4の2の道標

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高槻市富田町4丁目2 筒井池公園南、南北の道から北西に分岐する三叉路の北西部に建つ
尖頭型角柱 171x東面31x30.5p(頂高6p)
N34.831127 E135.594756


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東面
┌―――――――――――――――┐
│蓮如上人御旧跡        │
└―――――――――――――――┘

北面
┌―――――――――――――――┐
│富田御坊 教行寺       │
│      左二丁      │
└―――――――――――――――┘

西面
┌―――――――――――――――┐
│(なし)           │
└―――――――――――――――┘

南面
┌―――――――――――――――┐
│(なし)           │
└―――――――――――――――┘


(『高槻の道しるべ』高槻市教育委員会発行、昭和58年刊では、14)
(道標とするかどうか微妙なところであり、同書には「町石」として載っているが、当資料の「丁石」とは明らかに異
 なる為道標として載せる。)
(現地点から「教行寺」へは290m程有り距離的には3丁が近く、元位置に有るとすれば、切り捨て表示したものであ
 ろうか。依って移設の可能性があり、距離を合わせれば、市の富田支所南西角、池の堤防跡辺りとなりそうである。
 元の位置のままであったなら、江戸時代前、中期の地図等では、当地は筒井池の中と思われ、明治の地図には池を分
 ける道が有った様に書かれている事で、江戸後期以降の建設と考えられる。因みに、筒井池の埋め立ては昭和43年
 (1968)頃と思われる。
  教行寺は、江戸後期(寛政十(1798)年)の『攝津名所圖會』にも載るが、「慶瑞寺」や「普門寺」に比べ記述は
 少ない。
 国立国会図書館デジタルアーカイブの『攝津名所圖會』. [6]のコマ番号38を参照。
 当地が池であったと思われる絵は、コマ番号32の「本照寺」右頁の「鼓楼」辺りと想像し、移設の可能性が大きい。
N34.830518 E135.594833
 辺りの三ツ辻北東部に、現東面を北面(90度反時計回り)させて置かれていたとしたい。)

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【1.道標を北に望む 【2.道標を南西に望む 【3.道標を北に望む
 後の公園は  右側石標後ろに  「蓮如上人・・・」
 筒井池埋立地か】  本照寺が見える】  の面を東面とした】

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【4.道標を南に望む 【5.道標を東に望む 【6.道標を南に望む
 此処から「左」は  北面のいう「左」  右本照寺の築地塀が
 何処を指すのか】  方向には道が無い】  切れた東側が元位置か】

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【7.高槻南部の道標】
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