7.宝塚市米谷1の道標

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宝塚市米谷1丁目18 西からの道(有馬道)が南に曲がった途端、東へ分岐する三叉路となる東南部に西を正面に建つ
尖頭形角柱 79x24x22p(頂高3p)(台部24p含まず)
N34.80956 E135.3625


写真cimg1524

写真dimg1060

写真dimg1062

写真dimg1063

西面
┌─――――――――――――――┐
│右 大坂           │
│左 の道           │
└―――――――――――――――┘

南面
┌─――――――――――――――┐
│施主             │
│ 樽屋市兵衛         │
└―――――――――――――――┘

北面
┌─――――――――――――――┐
│(なし)           │
└―――――――――――――――┘

東面
┌─――――――――――――――┐
│(なし)           │
└―――――――――――――――┘


(『たからづかの道標』では8、「国府橋北西」に位置し「明治以降に架けられたものであり、
 それ以前は橋の南たもとの急な坂道を下って大堀川を渡り街道に出ていた。」と説明されいる。
 確かに、現在でも橋の南を西に川床まで下り、北に渡って、北西に崖を登り、旧和田邸の西100mに
 出る道(いわし坂)が残っているが、そのルートを採ると現道標のある三叉路は通らない。
 依って、橋が架かる以前に道標が建てられたものなら、移設されたと考えるべきであろう。
 国府橋は、明治8年9月の架設らしいので、「樽屋市兵衛」さんがいつ頃の人か気になる所です。)
(移設なら、元位置として、宝塚市米谷1丁目8−17の三叉路の南東部に、西面していたとしたい。
N34.809916 E135.360953
 辺りか、「左の(野)道」が現在の県道142号にあたる。)
(『たからづかの道標』に従い施主の屋号を「樽屋市兵衛」としたが、上部に「八」が付くかもしれない。
 「施主」と名前の配置のバランスを考えると、無い方が綺麗である。)

写真dimg1057 写真dimg0759
【1.有馬道から南を望む 【2.宝塚東部の道標(明治44年)】
 右側赤い欄干が国府橋
 手前から奥へが、有馬道を
 大阪(小浜宿)方面となる】

写真dimg1350 写真dimg1341
【3.元位置辺りを東に望む 【4.国府橋より西を望む
 正面三叉路あたりか  結構な高さである】
 右側に下る道が旧有馬道
 左直進が、野道か
 明治44年地図では橋がある】

【追記、2022年2月】
 この二月より「たからづかデジタルミュージアム」が公開されたようで、その中の『小浜町絵図』
 (文政十年(1827年)亥八月)に当地の状況が良く描かれている。翻刻文も同時に見ることが出来ます。
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