10.三島郡島本町山崎1国境碑(道標でない)

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三島郡島本町山崎1 ほぼ西からの西国街道がクランク状に南に折れる角の関大明神社の東に北を正面に建つ
角柱 207x25.5x25.5p
N34.89144 E135.67898


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北面
┌―――――――――――――――┐
│従是東山城国         │
└―――――――――――――――┘

東面
┌―――――――――――――――┐
│(なし)           │
└―――――――――――――――┘

西面
┌―――――――――――――――┐
│(なし)           │
└―――――――――――――――┘

南面(写真無)
┌―――――――――――――――┐
│(なし)           │
└―――――――――――――――┘







(道標では無いが、摂津と山城の境を示すものとしてここに載せた。)
(『史跡をたずねて』島本町教育委員会発行、平成18年刊では、58)
(同書には「関大明神社東を流れる明神川をもって大阪府・京都府の境界とし、その川の左岸(下流に向き)に建つ。」
 とし、「明治四(1871)年七月廃藩置県が断行され十月に仮の国境棒(示)石が水瀬川堤上に建てられた。…翌年五
 月東大寺村は国境棒石を明神川筋へ立て替えるよう大阪府に訴え出た。…明治六(1873)年十月五日山崎村・東大寺
 村は大阪府へ編入が決定した。」とある。
  この石碑の大きさからして、仮の棒示石とは思えず、建立は明治六年以降と思われる。
 国名「山城国」が一国しか書かれておらず、建設主は京都側の人、組織と思われる。又、地域的には北も山城に属す
 るが、「東」とだけ書かれているのは、街道を意識した書き方であろう。山崎道(西国街道)はここを北東に進み、
 大山崎に入るとほぼ北への道となる。
  国会図書館デジタルコレクション『都名所図会』6巻.[4]に離宮八幡神社が、載り、その絵の中に「国堺」の碑が描
 かれておりこの石ではないと思うが、同様のものがあったと想像される。
  国立公文書館デジタルアーカイブの「天保国絵図摂津国」では、山崎村が摂津に属し、「山崎村西三入口より山城
 の国大山崎町国境迄四町二十間(470m)」とあり、
 同「山城国絵図」には、「大山崎東之口町より摂津の国山崎町国境まで十五町四十七間(1720m)」とかかれており、
 明治44年発行の地図では、国境は現在と同じに、明神川にあるように描かれている。
 江戸時代の国境でけりが付いたものかと思う。)

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【1.国境碑を東に望む 【2.国境碑を南に望む 【3.国境碑を北東に望む
 左(東)京都府へ  赤いポールの所が  南面が少し見える
 神社左を境に西大阪府】  明神川(府境)か】  左、大阪、右、京都へ】

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【4.国境碑北面拡大
 京都府域に建つ為か
 「摂津国」がない】

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【5.島本町の道標】
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