神戸市東灘区御影塚町2丁目25 東西の西国街道と南北の道が直交する南東部に北西を正面に建つ
(国道2号線徳井交差点南170m)
尖頭型角柱 116x24x22p(頂高6p)
N34.712792 E135.246673




北西面
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│兎原遠とめ塚 │
└――――――――――――――――――┘
(「遠」はカナ「を」で「処女塚」であろう)
南西面
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│小山田健雄戦死碑 │
└――――――――――――――――――┘
南東面
┌─―――――――――――――――――┐
│(なし) │
└――――――――――――――――――┘
北東面
┌─―――――――――――――――――┐
│小山田健雄戦死碑 │
└――――――――――――――――――┘
(『神戸の道標』山下道雄、神戸新聞、1985年刊では東灘区13)
(北面のくずし字の二文字は「兎原」で「菟原」ではない。当地の古くからの呼び名であると思われる。明治22年
から明治29年(1896年)まで菟原郡が存在したようだがこれを以て建設年は決められないと思う。)
(先ず道標であろうか。行き先が書かれておらず、左右に「…碑」とあり「…道」ではない。南後ろに建つ解説板に
ある様に東西の旧西国街道を歩いていてここで南に曲がる事が出来るであろうか。大いに疑問である。西2kmにあ
る「求め塚碑」との関連は後述する。)
(西と東面に有る「小山田…碑」に関して、当道標の南150m程にある処女(おとめ)塚にある、「小山田高家の碑」
解説に、新田義貞に代わり討たれた人物として説明があり「…「太平記」の描く武勇を記念して、弘化三年(1846)
の代官竹垣三左衛門藤原直道が東明村…に命じて建てさせたものである。」とあり、塚に建つこの石碑を案内する
ものかもしれないが、「健雄」が「高家」と同一かは分からない。もしこの石碑を指しているなら建立時期はその
碑の記述から、弘化三年十一月(1846年12月18日金曜日)以降となるが、案外新しいものかも知れない。
即ち、国立公文書館デジタルアーカイブの『太平記』巻十六「新田殿湊川合戦の事」のコマ72に「小山田太郎高家
遥かの山の上より是を見て諸鐙を合て馳参て己が馬に義貞を乗奉て我身は徒立に成て追懸る敵を防けるが敵数多に
取籠られて遂に討死にけり其間に義貞朝臣御方の勢の中へ馳入れて虎口に害を遁れたまう。」とあり、その後ろに
「小山田太郎高家青麦を刈る事」として自身の過ちを義貞に助けて貰った恩に報いるための所業であった事が書か
れている。いかにも明治期から戦前に至る道徳観を養うためのエピソードに思える。をとめ塚よりも、この石碑を
案内する事(二面に書く)が主目的ならその頃のものではないかと思うのである。
寛政十年(1798)の国立国会図書館デジタルアーカイブの『攝津名所圖會』. [11]のコマ番号38に「處女塚」が載り、
コマ42に『太平記』が引用されているが、当然、弘化三年の石碑は載る術もない。)
(解説板で気になる点を挙げておく、「この道標が建つ東西の道は、江戸時代の西国街道・本街道にあたる。そして
ここから南にある処女塚へ向うための道しるべ…」とするが、明治43年測図の地図では北への小径がある三ツ辻
として描かれ、大正12年測図の地図でも同様である。移設が無ければ解説はウソになると思う。)
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【1.石標を西に望む |
【2.石標を南に望む |
【3.石標を東に望む |
左(南)に曲がり |
大きく割れた跡は |
奥(東)石屋川へ |
処女塚へ150m程】 |
修復されている】 |
明治期の西國街道】 |
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【4.石標南に建つ解説板 |
【5.処女塚を東に望む |
【6.塚の石碑を西に望む |
東西の道を江戸時代の |
東西から登れる |
右が弘化三年の碑と |
西国街道・本街道とある】 |
石碑は東側にある】 |
思われる】 |
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【7.弘化三年の碑東面 |
【8.石碑解説を南に望む |
左端に「弘化三年… |
右が小山田高家の碑 |
紀設人伊達…」とある】 |
左は歌碑の説明】 |
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【9.神戸市東部の道標】 |
【参考】別項を設けないのでここに記述する。
『神戸市灘区都通3丁の西求女塚の石標』
神戸市灘区都通3丁目1―17 同所西求女塚古墳の後円部北側に南西面して建つ
山型角柱 133x16x16p(頂高5p)
N34.705130 E135.226368




南西面
┌─―――――――――――――――――┐
│求女塚 神戸市 │
└――――――――――――――――――┘
南東面
┌─―――――――――――――――――┐
│ 昭和三十年一月 │
└――――――――――――――――――┘
北東面
┌─―――――――――――――――――┐
│菟原処女の物語にある塚の一つと │
│ □えられる前方後円の古墳である │
└――――――――――――――――――┘
(枠の都合上二行にしたが一行に刻む)
北西面
┌─―――――――――――――――――┐
│(なし) │
└――――――――――――――――――┘
(如何でしょうか、文面は違うが雰囲気はよく似る。特に鉄板で補強する点は後日のものと思われるが同一で、補修
担当者がどちらも同じ扱いをした点も含め、道案内の性格は持たないと判断したと想像する。
「兎原遠とめ塚」も古墳内に建てるべきものと思うが、どうか。)
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【10.石標を北東に望む |
【11.石標北東面上部 |
【12.石標北東面下部 |
後は塚北側の公園 |
「菟原処女の…」 |
「…前方後円の古墳…」 |
塚は東向きにある】 |
と読める】 |
と読める】 |
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【13.西求女塚古墳の解説板 |
「全長約95m… |
前方後方墳…珍しい」とある】 |
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