6.川西市丸の内町5の道標

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川西市丸の内町5−1 文化会館南東(警察寄り)の植え込みの中に東を正面に建つ
自然石風(四辺柱) 94x東面下部50x25p(東面上部39p)
N34.838577 E135.418621


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東面
┌─――――――――――――――――┐
│右 矢問村平野ゆ元        │
│中 多田院 銀山 道       │
│左 西多田村           │
└―――――――――――――――――┘

西面
┌─――――――――――――――――┐
│ 施主              │
│  矢問村            │
└―――――――――――――――――┘

南面
┌─――――――――――――――――┐
│(なし)             │
└―――――――――――――――――┘

北面
┌─――――――――――――――――┐
│(なし)             │
└―――――――――――――――――┘


(『川西の歴史散歩』昭和60年刊では14)
(同書に「阿古坂峠の道標、萩原から西多田に通じていた旧笹山街道の十字路に南面して建っていた。
 保存のため当地へ」とあるが、元位置の見当がつかない、右、中、左となっているので、最低四辻であり、
 多田院と西多田村が別れる地点を明治44年の地図で探すが見つからない。(両者、笹山道北方向では)
 考え方として、多田院と西多田村との分岐点を第一にすべきかと思う。
  又、行き先に「村」(施主の住所として「村」付くのは普通であるが)や、「中」が付くことから、
 建立は、明治4(1871)年の廃藩置県当たりから、明治の町村制の施行により二村が統合され多田村になる、
 明治22(1889)年として、その当時の地図を参考にしたいと思う。この後も調査継続とする。)
(『かわにしふる里散歩』3−道標をたずねて−(昭和58年刊?)に「旧笹山街道の金岩山頂上にあたるアゴ
 坂峠の十字路に建っていた」とあり、昭和40年発行の地図(54年には萩原台が見える)より
N34.84834 E135.41189
 辺り(明峰小学校の北東交差点)が考えられる。
 ここであれば、右、左は申し分なしであるが、「中 多田院、銀山」の道が、矢問2丁目4−25、赤坂池
 の西で地図上から消えている、現在では、その先、矢問川を渡り、矢問八幡宮の南西へ続き、旧県道12号へ
 出る道があり、この道が当時からあれば、此処と断定出来そうである。)
(尚、「矢問村」は元禄国絵図にみえるが、更に古い慶長国絵図には、「山問村」となっている。)
(自然石風としたが、完全なる加工石である、特に北東陵部分には、鑿(ノミ)或いは鏨(タガネ)の跡がハ
 ッキリと残る。)

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【1.県道12より道標を南に望む 【2.歩道から道標を西に望む 【3.東面拡大
 中央バス停右奥に道標  左(南)能勢口駅へ  行き先を示す「左 中 右」
 右(西)は文化会館】  右(北)鼓が滝方面】  「中」の表現はほぼ見ない】

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【4.川西南部の道標】
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