11.西宮市門戸西町7の道標

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西宮市門戸西町7 南北のやくじんさん筋に東西の道が交わる、四辻の南西部に東を正面に建つ
横の説明に「かわいらしい道標」とある。
自然石 72x53x26p
N34.763833 E135.355559


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東面
┌─――――――――――――――――┐
│ 是よりにし           │
│加ふと山 くわんおんみち     │
│ 十八町あり           │
└―――――――――――――――――┘
(「より」は変体かな、「わ」は王の変体仮名)

その他の面
┌─――――――――――――――――┐
│(なし)             │
└―――――――――――――――――┘


(『西宮歴史散歩案内マップ』市教育委員会、平成20年刊では、30)
(『西宮の道標』宮崎延光、昭和44年刊では、41。
 同書では、「「20.西宮市仁川百合野町の供養塔」と同時代のもので、寛保(1741〜)から延享
 (〜1748)にかけてのものと推定される。」としているが、その根拠は、寛保元年再建時の仏性原の
 本堂の位置を上記の道標から割り出し、その位置への距離が、この道標からの「十九丁」と一致する
 ことと、又、再建された神呪寺が、わずか十五年後に移動している事により、その間の建立としたも
 のであろう。これによるなら建立時期は、寛保元年から延享、寛延、宝暦5年(1756)迄となるか。)
(上記書では「十丁」、北横の案内板では、「十九町」としているが、「十八町」であろう。
 理由は、一画目の入りが縦方向でなく、左から右に入り、左下にはねており(片仮名の「フ」の様)、
 且つ、二画目の右側に繋がっていない事による。)
(明治の地図では、当道標から、上記想定本堂迄は1.8q(17丁)程度となり、十八丁に近似する。
 もし、現神呪寺までとすると、2.9q(27丁)になり、道標の表記とはかけ離れてしまう。
  依って、大幅な移設でない限り上記の推測は妥当であろう。尚、当位置は、西宮道/有馬道(現やく
 じんさん筋)から神呪寺への参詣道が分岐する辻で、道標を立てるには相応しく、これから見ても大幅
 な移設は考えにくい。
  ただし、北横案内板にある、「「くわんおんみち」の上に刻字があるが、後に刻字されたものか彫り
 が浅く読み取れない。」に注意しなければならない。それは、三行目にも当てはまり、「十八町」の部
 分も彫りが浅く、かつ、石に対する字の配置バランスが崩れてしまっている。
 これが追刻であるとすれば、神呪寺が「十八町」の地点に移設又は再建された時に追刻された可能性が
 高いと考えられ、同様に、現在の甲山に移設された時、二行目の上部に「加ふと山」を追加したとも考
 えられる。)
(神呪寺については、「68.神呪寺丁石一覧」を参照下さい。)

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【1.道標を北に望む 【2.道標を南に望む 【3.道標を西に望む
 奥(北)宝塚へ  南北はやくじんさん筋  この先より急勾配
 左、上ヶ原へ】  石の後ろは水路】  水路より引揚られた】

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【4.北横案内板 【5.上部拡大 【6.道路上の道標
 「十九町で神呪寺の  左側距離部分  「ち」の途中から
 現在地」は誤り】  「十八町」と読める】  埋まっている】

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【7.西宮南部の道標】 【8.神呪寺丁石一覧】


西宮市門戸西町7の道標説明板
西宮市門戸西町7 道標の北側に東向きに建つ


 可愛らしい道標

自然石に彫られたこの道標は、側溝の住居の塀にはめ
込まれる形で、今より下の方にあったものを、その後
この場所に引き上げられたものである。碑面の刻字に
「是よりにしく王(わ)んおんみち十九町あり」は、神呪寺の
ほぼ現在位置を示している。また「くわんおんみち」の上に
刻字があるが、後に刻字されたものか彫が浅く読み取れない。
守部の渡しから甲山観音へは、この道標より少し南に
ある「右か婦(ふ)と山道」道標(門戸西町)の脇を通るのが
主たる道(尼・大坂道)であるが、この道標脇の道を西に辿れば、
その先で合流していた。東に辿れば尼・大坂道に合流する。
  甲東文化財保存会


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