7.西宮市津門西口町14の道標

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西宮市津門西口町14−12 昌林寺の門前、東部に延びる塀沿いに、東を正面に建つ
尖頭形角柱 146x26.5x26.5p(頂高6p)(台石10x北面61.5x62p)
N34.73553 E135.34967


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東面
┌─―――――――――――――――――┐
│頼光卿御影堂并幸壽丸舊地      │
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北面
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│従是北二丁余            │
│       松原山昌林寺     │
│  津門村             │
└――――――――――――――――――┘

西面
┌─―――――――――――――――――┐
│嘉永二年己酉秋八月建之       │
│  発起ノ主西宮桝屋教順      │
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南面
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│四天王手植松 村東□鬼塚阿り    │
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(南面、□は、「に」とある。『近畿地方の歴史の道山陽道9』 390P参照)
(嘉永二年八月一日なら西暦1849年9月17日月曜日となる)
(『西宮歴史散歩案内マップ』市教育委員会、平成20年刊では、4)
(『西宮の道標』宮崎延光、昭和44年刊では、4。
 同書に「「従是北二丁余」と昌林寺への距離を示しているところから、むかしはもっと南の旧大阪街道
 あたりにこの碑がたっていたものとおもわれる。…四面碑文で埋まりPR満点の行き届いた道標」とある。
  上で言われる場所を明治の地図で想像すると、中国街道(現旧国道筋)が津門川を西に越えた地点で、
 北昌林寺に向かう道が分岐しており、
N34.732256 E135.348905
 此処だとすると、400m程となり、二丁余の2倍近くになり三丁をも越える。(津門村へ二丁ならよし。)
 そこで、現本堂から南2丁の、津門西口町11の北東部、大箇から津門を通り六湛寺に続いていた旧道
 の跡が少し残る辻
N34.733998 E135.349821
 辺り
 又は、その南60mの現在では五辻の、津門西口町9の北東部
N34.733493 E135.349791
 辺りではないか。
  この二点は、津門集落の南西端にあたり、発起人の西面が一番目立たない位置にあったとすると、道の
 西側に建っていたものか。)
(南面、「四天王」は源頼光の家来四名を指すが、現昌林寺境内に「坂田金時手植えの松」とある。
 「鬼塚」は『新西宮歴史散歩』20頁に、津門大塚古墳を指すとあり、Webにあった「1872年東海道線敷設
 に際し土取で破壊、後、用水池(大塚池・鬼塚池)、後、朝日ビール西宮工場敷地」を信じると、2017年
 現在、更地となっている、阪急今津線、阪神国道駅の東50m辺りとなるようだ。)
(昌林寺は、多田源氏、源満仲の末子、美女丸と、藤原仲光の子、幸寿丸の伝説に関わる寺であることが
 摂津名所図会にも書かれており、他に、清和源氏ゆかりの寺院である川西市の満願寺や小童寺、宝塚市
 の普明寺等にも、美女丸・幸寿丸と藤原仲光の供養塔があるのを見ると、今でいう観光名所の一つとし
 て人々が訪れる場所であったのだろう。尚、源頼光は源光仲の長子であり、美女丸とは兄弟か。)
 国会図書館デジタルアーカイブ、『摂津名所図会』[11]、19コマ参照。)

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【1.道標を西に望む 【2.道標を南東に望む 【3.道標を東に望む
 奥(西)昌林寺  左北からの道がカーブミラへ  今は「嘉永二年…」の面
 楠の後ろ津門神社】  東折れ後右折中国街道へ】  が寺門に向く】

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【4.境内の手植えの松碑
 大江山退治正暦元(990)年
 千年前の松は無し】

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【5.西宮南部の道標】
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