44.宝塚市湯本町11(大正)の道標

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宝塚市湯本町11 武庫川西岸沿いの道から西に分岐する三叉路(宝来橋南詰北)を15m程西に進んだ北側に南を正面に建つ
二基の内、東側新しい道標
尖頭形角柱 100x23x18p
N34.80802 E135.34048


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南面
┌─――――――――――――――┐
│右塩尾寺           │
│    是ヨリ十五丁     │
└―――――――――――――――┘

北面
┌─――――――――――――――┐
│□□大正元年十一月      │
│      大阪材木商泉平  │
└―――――――――――――――┘

東面
┌─――――――――――――――┐
│(なし)           │
└―――――――――――――――┘

西面
┌─――――――――――――――┐
│(なし)           │
└―――――――――――――――┘


(大正元年は1912年)
(『たからづかの道標』(昭和61年刊)25では、南面「左塩尾寺」となっている。
  確かに、元は「左」であったと思われるが、現在は「ノ」の左右を縦に彫り、
 「右」の字に見える、が字のバランスはやはりおかしい。
 『たからづかの道標』では、「県道との分岐点に立っていたものであろう。」とあるので、
 現在の向きのまま、東の県道脇に移せば、「左」が寺への参道を示し、矛盾はない。
  では、何故「右」に変えたのであろうか、この参道の南側か、少し南の湯本台広場の西
 T字路の西部辺りに立っていた時期があったなら、「右」としたくなる。(T字路からは、
 右(北)へ進み、北西に曲がって下り、川を越えて今の参道に合流)
 よって今の場所に設置されるまでに、一度ならず移設されたとしたい。)
(現在西横に立つ道標が明治32年(1899年)建立、当道標は、大正元年(1912年)建立。
  僅か13年後に同じ位置に道標を立てた理由は何であろうか。塩尾寺の信者が競って
 道標を奉納するような状況であったのか、或いは、西の石が折れたためであろうか。)

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【1.道標を北に望む 【2.道標を西に望む 【3.参道を北西に望む
 右側(東)が当道標】  参道を西に望む  左端(北)に二基
 
 奥へ20m右側(北)に道標】  右側が当道標】

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【4.南面拡大
 「左」を「右」に変えたか】
 
 
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【6.宝塚西部の道標(明治44年)】

写真dimg0762
【7.宝塚南部の道標(明治44年)】
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