46.宝塚市野上1の道標

↓末尾へ 文字ずれ時はブラウザの幅や「Ctrl」と「+」、「-」キーで倍率変更等して下さい。
宝塚市野上1丁目1 東からの道が阪急今津線を潜ってYの字に分岐する西部に東を正面に建つ
尖頭形角柱 55x17.5x14.5p(頂高6p)
N34.798489 E135.349605


写真cimg2528

写真dimg2041

写真dimg2039

写真dimg2040

東面
┌─――――――――――――――┐
│右寶梅園           │
└―――――――――――――――┘

西面
┌─――――――――――――――┐
│(八馬建之)         │
└―――――――――――――――┘

南面
┌─――――――――――――――┐
│(なし)           │
└―――――――――――――――┘

北面
┌─――――――――――――――┐
│(なし)           │
└―――――――――――――――┘


(( )部は『たからづかの道標』(昭和61年刊)22では、
 「宝梅園付近が開発され住宅化が進んだ昭和初頭頃に立てられたものであろう。」
 とあるが、寶梅園を創り、来客を案内する為に、とすべきではないか。
  Blog『近代宝塚歴史紀行』の、2013年10月22日「宝梅園と八馬家の洋館 」に
 「八馬兼介は、明治36年に宝梅の土地を買収し、大正12年に宝梅園土地建物合資会社を設立」
 「「攝北温泉誌」大正4年1月発行に(寳梅園)「寳梅園は迎寳橋を南に渡り…」等とあり、
 大正の初めには、人々が訪れるような状況であったと思われるので、その頃まで遡る事が可能。)
(宝梅園は、現在の町名「宝梅」として残る辺りと思われる。)

写真dimg2042 写真dimg2045
【1.道標を南に望む 【2.道標を西に望む
 道標は石垣の上  道標は石垣の上
 左阪急逆瀬川駅】  奥(西)宝梅へ】

写真dimg0762
【3.宝塚南部の道標(明治44年)】
文字ずれ時はブラウザの幅や「Ctrl」と「+」、「-」キーで倍率変更等して下さい。 ↑先頭へ