55.茨木市玉櫛1の道標

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茨木市玉櫛1−6 南北の枝切街道が階段状に折れ曲がっているT字路の北東部に建つ
(小さな沢良宜東墓地の南)
頭丸型角柱 120x(西面)20x17p(頂高3p)(基部37x西面23x17p高さに含む)
N34.802084 E135.572255


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西面
┌――――――――――――┐
│ 妙介ん        │
│右    道      │
│ い者らき       │
└――――――――――――┘
(「介、者」は変体仮名「け、は」「妙見、茨木」)

北面
┌――――――――――――┐
│右 さ和らき濱むら   │
│         道  │
│左 大峯山し満     │
└――――――――――――┘
(「和、満」は変体仮名の「わ、ま」
 沢良宜浜村、大峯山、島、であろう)

南面
┌――――――――――――┐
│甲 明治七年      │
│       建之   │
│戌 第初冬       │
└――――――――――――┘

東面
┌――――――――――――┐
│なし          │
└――――――――――――┘


(明治七(甲戌)年は西暦1874年となる。「初冬」を十月として、「第十月」の意味であろうか。尚明治6年より、
 西暦の使用が始まった様だが、一般に切り替えが浸透するまでは、陰暦も使われた由で、微妙な頃かと思われる。)
(『わがまち茨木』(道標編)三版、教育委員会、平成19年刊では80)
(同書では「明治の地図を見ると、水尾池より500m余り南で道が二つに分かれている。左が枝切街道で、まっすぐ
 行くと沢良宜である。この道標はおそらくその分岐点に立っていたものであろう。」と書いているが、この地点こ
 そが、その分岐点であり、枝切街道の痕跡がそのまま残っている。
  しかし、追刻は無しとし、現状では両面の案内が矛盾する様に思え、どのような向きに置けば良いか分らない。
 近隣で道が確定しやすいのは「し満」を「島」として、葦分神社方面への道(現府道15)として、左=南東とする。
 次に、「茨木」は北で間違いないとし、西面の右=北とすると、現西面を135〜180度回転し、北東〜東面していた
 とすれば、ほぼ解決する。が、その時現北面の、「右沢良宜浜」が「茨木」と同じ方向を指すことになり、現地で
 は、北と南の関係にある町と村にも関わらず、同じ道を進むことを示しふしぎである。
  もう一度明治の地図をよく見ると、墓地の記号が見え、枝切街道はこの東を通り、北に巻いて、沢良宜浜−茨木
 を結ぶ南北の道に突き当たっており、墓地の南を、小径らしきものが通っている。依って今の位置から東40mの辻
 (西への小径もいれ三ツ辻)に右回りに135度回転させて置くと、「沢良宜浜」へは、一度「茨木」と同じ道を進み、
 次の三ツ辻で、南に分岐する事を案内したものとすれば納得できる。(墓地南の小径をショートカットせよと案内
 しなかったのは、通行に適さない道であったからだと思う。)
  結論として、現地の東40m、旧三ツ辻の南西部
N34.801956 E135.572687
 からの移設とし、現、西面が北東面していたとしたい。)

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【1.道標を南東に望む 【2.道標を北に望む 【3.道標越しに南を望む
 奥(南)沢良宜浜へ  奥(北)突当を左へ  自転車等止めてあるが
 道標後、東へ小径】  直後に右、茨木へ】  左に小径、府道15へ】

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【4.道標西面拡大 【5.道標北面拡大 【6.道標南面拡大
 「右、妙見、茨木」  「右 沢良宜浜村」  「甲戌」は六年の干支
 かな文字等江戸期風】  この案内が難儀】  「第」の意味不明】

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【7.茨木南部の道標】
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