20.茨木市三咲町3の道標

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茨木市三咲町3−18 総持寺からの道祖本街道が現西国街道に突き当たる辻の南西部に北を正面に建つ
(国道171号、西河原西交差点の西70m、道の南側)
尖頭形角柱 97x36x36p(頂高10p)
N34.831178 E135.568872


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北面
┌―――――――――――――┐
│右い者らき        │
│     道       │
│左そうち寺        │
└―――――――――――――┘
(「者」は変体仮名「は」)

東面
┌―――――――――――――┐
│香具連中建之       │
└―――――――――――――┘

南面
┌―――――――――――――┐
│文政四巳年十二月廿七日  │
└―――――――――――――┘

西面
┌―――――――――――――┐
│    畑田村      │
│釋休西  俗名      │
│      重兵衛    │
└―――――――――――――┘


(文政四辛巳年十二月廿七日は、西暦1822年1月19日土曜日となる。)
(『わがまち茨木』(道標編)三版、教育委員会、平成19年刊では73)
(同書に、「旧道で、五日市の方から茨木または総持寺へ行く分岐点に立っていたものである。」とあるように、明治
 の地図で見ると、北西、五日市より来た茨木川北岸の堤防上の道から、東へ堤防を下り総持寺へ分岐する三叉路とな
 っている。茨木へは、道なりに堤防上を南東へ進む事になる為、三ツ辻の東部に位置し、現北面が西面又は北西面し
 て建っていたと思われる。
 尚、その三ツ辻は、現在の位置でなく、西30mの堤防上であったと思われ、旧道の曲がり具合から、北側歩行者用橋
 の東詰め
N34.831130 E135.568386
 辺りで、道の付け替えと共に、道標も移動させられたと考える。)
(西面は施主、又は願主と思われるが、畑田村は、川の西側にある村で、証西寺辺りが集落の中心と思われる。
 畑田村は、「国立公文書館デジタルアーカイブ」「天保国絵図摂津国」にも載っている。)
(南面「文政四巳年」の「巳」は「己」や「已」のように見えるが、元号と、十二支を付けて年を表現することは多く、
 くずし字で「巳」ミ(上辺に繋がる事はあまりない)と書かれているとした。前述、文政四年は、辛巳(かのとみ)
 年である。)

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【1.道標を南東に望む 【2.道標を北東に望む 【3.道標を西に望む
 奥(東)総持寺へ  奥、現171は当時無  元位置は30m先堤防上
 南東茨木への道は無】  右(東)総持寺へ】  の街路灯北側辺りか】

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【4.道標南面拡大 【5.道標の北面拡大 【6.西面下部
 「文政四巳年…」  「右い者らき」は  「畑田」は川の西
 と読める】  「右茨木」を示す】  の集落名】

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【7.茨木南部の道標】
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