23.茨木市西河原2の道標

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茨木市西河原2−7−38 東西の道祖本街道に南北の道が交わる四つ辻の北東部に南を正面に建つ
(四つ辻の北西、北東にそれぞれ常夜燈があり北東のすぐ西に位置する)
平形角柱 102x17x17p(面取高2p)(基部高8p含む)(頂部、盃状穴φ7p、深さ1p)
N34.829916 E135.574898


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南面
┌――――――――――――┐
│い本水 壹丁半     │
│     北東     │
└――――――――――――┘
(「本」は「ほ」の変体仮名)

西面
┌――――――――――――┐
│ 吉川専助       │
│ 井田たき       │
└――――――――――――┘

東面
┌――――――――――――┐
│明治十二年一月     │
└――――――――――――┘

北面
┌――――――――――――┐
│なし          │
└――――――――――――┘


(明治12年は西暦1879年)
(『わがまち茨木』(道標編)三版、教育委員会、平成19年刊では71)
(同書に「いぼ水というのは磯良神社のことで、古くから神社名より「いぼ水さん」で親しまれている。」と
 あり、明治時代にあっては、神功皇后出兵に関わる故事等は、持てはやされたと想像でき、参詣も多かった
 のであろう。総持寺と勝尾寺を結ぶ道(道祖本街道)から北同社迄ではこの地点か、東250mの現府道126号
 との交差点の二点が考えられるが、北東となるのは、現地点しかない。
 ただ、現在の磯良神社までは、400m以上離れており、1.5丁(160m)とは大きくかけ離れており疑問で
 ある。移設されたものか、目的地が異なるのか考慮の余地がある。
  そこで、国立国会図書館デジタルコレクションの「摂津名所図会[6]」のコマ25、「便の水」を見ると
 「便の水(よるべのみづ) 西河原村新屋社の東南一町許にありもと此の所は新屋神社の神籠の内なり…
 よるべの水は社頭の神水之世人此水を疣水といふ…」「むかしこの清水潤沢にして田畝数千頃を養う」等とあり、
 絵図の説明に「嶋下郡西河原村の野中に霊泉ありこれを疣水といふ…」とし、田圃のあぜ道の脇に流れる風の
 絵が添えられている。よって神社の境内にある井戸のようなものでなく、川の様なものであったのなら、神社
 までの距離にこだわる必要は無くなる。(よるべの水=水瓶に入れ神社庭前に供える水。古語辞典より。)
 結論として、「いぼ水」は神社を指すものでなく、独立した湧水地点(名所)を示すものであろう。
  尚、同書の「補陀洛山総持寺」の絵図(コマ30)に総持寺の北東部に「いぼ水」なる絵があり、これか。
 もしこの絵図のとおりなら、境内では無く、この道標の案内通りの地点(即ち北東1.5丁)にあったものと思
 える。(移設は無かったと出来る。)
  又、横に建つ御神灯は疣水神社への参道口に違いなく、西河原村と橋ノ内村の氏子中とある。橋ノ内村はこ
 こより南西、1.5qも離れており、「いぼ水」の流域と関係があるのだろうか。)
(上部に盃状穴がある事から見て、通行人が触り易い位置に有ったと思われ、現在の位置では触りにくく、石灯
 籠より前に置かれていたであろう。よって少なくとも近接移設はされていると思う。)

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【1.道標を東に望む 【2.道標を北に望む 【3.道標を西に望む
 奥(東)総持寺へ  北東へはこの奥へ  奥、現安威川堤防へ
 左、西河原公園へ】  進む道しかない】  110m西に22道標有】

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【4.道標南面拡大 【5.道標南面下部 【6.道標頂部
 盃状穴から見て  「壹丁半/北東」  直径7p程度の
 触り易い所に有った】  と読める】  盃状穴であろう】

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【7.茨木南部の道標】
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