4.池田市綾羽2大広寺前の道標

↓末尾へ 文字ずれ時はブラウザの幅や「Ctrl」と「+」、「-」キーで倍率変更等して下さい。
池田市綾羽2、五月公園前の道から、大光寺への参道が北東へ分岐する西側植込み中に、東を正面に建つ
尖頭形角柱 78x南面16x15p(頂高4p)(基部12p露出)
N34.828741 E135.428383


写真cimg3543

写真cimg3544

写真cimg3546

写真cimg3547

東面
┌────―――――――――――――――┐
│右 みのを道             │
└――─――――――――――――――――┘
(「を」は変体仮名「越」)

南面
┌────―――――――――――――――┐
│大廣寺                │
└――─――――――――――――――――┘

西面
┌────―――――――――――――――┐
│  正徳二壬辰年 施主平井氏     │
│為 瑞堂仙峰和尚           │
│  十□月二十三日  萬平      │
└――─――――――――――――――――┘

北面
┌────―――――――――――――――┐
│  平井村              │
│施主                 │
│  千 九良兵衛           │
└――─――――――――――――――――┘


(正徳二年、(壬辰)年の
  十月二十三日なら、1712年11月21日、月曜日
 十一月二十三日なら、1712年12月21日、水曜日
 十二月二十三日なら、1713年 1月19日、木曜日となる。)
(西面、十と月の間が全体に凹んでおり、表面もツルンとしており、字が彫られていたか
 不明の為、候補の月を、三つ挙げた。)
(『池田を歩く』市教育委員会平成16年では35)
(同書に、施主平井村、十(?)九良兵衛とし、平井は宝塚市の平井か、としている。
 ここでは、十の上に「ゝ」が付いているので「千」としたが、「干」(カン)もある。
 又、施主が二ヶ所にあり、二人で建てたのであろうか。)
(Wikiに「元禄七(1694)年に本堂等再建、子院も招致し江戸中期には繁栄を誇り、傘下の
 子院四十余り」とあるので、当道標はその盛りに建てられたものとなり、寺の位置は現
 在と変らぬようであるが、参道の位置が不明で、明治の地図にも現地点に、道の分岐は
 見えず、大正の地図になり、ようやく見えるが、移設に関しては不明としておく。)

写真dimg3385 写真dimg3386 写真dimg3390
【1.大広寺入口を北東に望む 【2.道標を北に望む 【3.道標を東に望む
 中央電柱の左に道標  左端に当道標  西面が賑やか
 右奥(東)は五月丘へ】  右(北東)は大広寺へ】  西面にも施主あり】

写真dimg2709 写真dimg3396
【4.池田南部の道標】 【5.北面拡大
 
 施主の名前、千か十か】
文字ずれ時はブラウザの幅や「Ctrl」と「+」、「-」キーで倍率変更等して下さい。 ↑先頭へ