10.箕面市箕面1の道標

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箕面市箕面1−9 南北と東西の道の交わる四つ辻の南西部に北を正面に建つ
(すぐ西側は用水が流れる)
尖頭型角柱(ほぼ稜線なし) 121x南面24x23.5p(頂高4cm)(高さは南面下部から測定、北面の高さは116p)
N34.835604 E135.469526


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北面
┌――――――――――――――――――――┐
│         すく 大 坂     │
│南無阿弥陀仏徳本 右  中 山     │
│         左  京       │
└――――――――――――――――――――┘

東面
┌――――――――――――――――――――┐
│         すく 中 山     │
│東        右  み乃をかち於し │
│         左  大 坂     │
└――――――――――――――――――――┘
(「於」は変体仮名「お」、「し」は「之」「じ」かも)

南面
┌――――――――――――――――――――┐
│         すぐ ミ乃をかち於寺 │
│南        右  京       │
│         左  中 山     │
└――――――――――――――――――――┘

西面
┌――――――――――――――――――――┐
│         すぐ 京       │
│西        右  大 坂     │
│         左  ミ乃をかち於寺 │
└――――――――――――――――――――┘


(箕面市教育委員会の案内板に『「徳本上人」自筆の六字名号が刻まれ』とある。)
(『箕面のみちしるべ』箕面市教育委員会、平成三年刊、では、73
 同書に載る写真と拓本より、現在2017年の方が、下部まで見えており、近年掘り上げられたものか。)
(徳本上人(宝暦八(1758)年〜文政元(1818)年)が、勝尾寺境内に「松林庵」を設けて入庵したのが、
 享和元(1801)年十一月と言われているので、自筆のとなると、このころから、文政元年十月の入寂迄
 となり、建立年月日が絞られてくる。但し、直筆の書等が残っておれば、それにより彫る事は可能なの
 で決定的とはいえない。因みに、松林庵は、昭和戦後の台風で無くなったようである。)
(江戸時代の道標であるとした時、東西南北の方向を明記した道標は珍しい。)

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【1.道標を北に望む 【2.道標を西に望む 【3.道標を南に望む
 奥(北)勝尾寺へ  奥(西)中山へ  奥(南)大坂へ
 左、中山へ】  左、大坂へ】  左、京へ】

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【4.道標を東に望む 【5.道標東面下部 【6.道標南面上部
 奥(東)京へ  中央「ミ乃をかち於し」  「すぐ」と濁点で
 左、勝尾寺へ】  と読み取れる】  表記する(西面も)】

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【7.道標西面下部 【8.中ノ坂案内板】
 左端「ミ乃をかち於寺」
 と読める】

(勝尾寺から中山寺への道を、巡礼道とするのは普通であろうが、どの道を指すのであろうか。
 一般的には、勝尾寺山門から、表参道を南に登り。「32道標」を、西にウツギ谷道に分かれ、しらみ
 地蔵から「30道標」へ出て、谷山尾根道に入り、「35道標」を過ぎ白島、如意谷を経由し池田方面
 とされているようであるが、これは、道標に「中山」と記されている為であろう。
  ただ、この経路は、最短でない為、この道を巡礼道にはせず、最も距離の短い、勝尾寺本堂下から、
 山門に出ることなく西に向かい、政の茶屋から、高山道に入り、聖天宮西江寺の東を通り、中ノ坂の当
 道標に出る道を、私説「巡礼道」とした。
 下記図9.「案内之絵図では、図中の左下に「みの道一リ」となっている。
 因みに、巡礼道にしなかった道は、中央下部の「中山道四リ」と思われ、その右の鳥居へ続く道(途中
 に対面石がある)が、表参道であろう。)

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【9.西国廿三番札所 【10.勝尾寺付近 【11.箕面市の道標】
 勝尾寺案内之絵図  元禄頃の絵図】
 左下、みの道1リ】
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