26.池田市伏尾町14の東山中の道標

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国道423号線の箕面バイパス北口交差点を東に入り一つ目の三叉路から入る。ここを東(箕面有料道路南側道)
に折れ、道なりに南下すること640m、車止めが有る三叉路を西に入り80m(左手に炭焼き釜あり)を南下、
800mで「日月大高不動尊」と地蔵祠、更に430mで道が西に折れる地点で沢により道が途切れる。
そこから先300mは徒歩のみ可。(車止めの有る三叉路から先は自動車は不可でしょう。)
西方尾根筋を久安寺へ、南方は谷筋で伏尾町(旧余野街道?)に下る道の分岐点に北を正面に建つ
(道標の南側には、供養塔があり、そちらの方が大きい。)
自然石風角柱 北東陵高80x北面下部18x西面下部17p(東面の幅は、上部、下部とも15p)(上面は東辺3、西辺5pで平面)
N34.862245 E135.453373


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写真cimg5400

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北面
┌――――――――――――――――――――┐
│右 久安寺               │
└――――――――――――――――――――┘

その他面
┌――――――――――――――――――――┐
│(なし)                │
└――――――――――――――――――――┘


(『池田を歩く』市教育委員会平成16年では28)
(同書では、止々呂美から池田に向かう旅人に、久安寺を教えている。とあり、これに従うと
 池田への道は直進である。明治の地図を見ると、此処から右(西)に分かれる道は見えない
 が、久安寺へ出れば、池田へもかわりなく行け、距離もさほど変わらない。即ち右久安寺は
 池田への道ではなかったのか。(この道の下部は、マンション敷地で入れないようです。)
  池田市の案内板の、旧余野道(亀山道、亀岡街道)とされている道は、やはりその道では
 く、道標地点から南へ進む道を示しているようだ。
  では、直進した場合何処へ行くのか、踏査の結果、しばらくは谷沿いの道が南西に続くが、
 同地図に見える、南東方向へ山を登り、旧秦野村(現池田市3丁目)から、高山へ続く尾根
 筋へ出る道との分岐点を過ぎると、ガレ場になり、先へは進めない、逆に下から登ってみる
 と、砂防ダムの幾つか目で道が途切れており、その間数百メートル程度に思えるが、繋がっ
 ていない。(現在、高山道は比定されていないが、先の尾根筋上の道ではないかと思う。)
 現在では、ハイカーすら通った跡もなく、谷筋でもあり歩きにくい。)
(西面が、磨き込まれた様になっており、上部が弓なりに弧を描くことから、前述の書では、
 石仏などの再利用の可能性があるとしている。但し、自然石を割って使用した場合、削り残
 した面が、ツルッとしていることはよくある。)

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【1.道標(中央)を北に望む 【2.道標を北東に望む 【3.道標を南に望む
 奥(北)下止々呂美へ  供養塔の左に当道標  西面のみ磨かれた弧状
 左(西)久安寺へ】  道は道標から左(北)へ】  後ろは道供養の碑】

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【4.庚申堂横の案内図 【5.道標の北300m辺り
 左端点線が道標へ直通道?  沢を越え徒歩で進む
 下点線道はマンションから進入不可】  現在の案内も久安寺】

写真cimg7305
【6.池田北部の道標】

(すぐ南に「道供養」の碑が建っているが、これが「道」に対して感謝を示したものか、死者
 等に対する供養を、道上で行うのを現したものかが分からない。
 北面に、「大乗妙典」と篆書で横書きし、明和六年己丑秋七月(1769年8月)とある。
 東面には、戒名?であろうか、釋XXや、○○居士・大姉・信士・信女、等多数、
 南面には、戒名?、大坂住島屋金兵衛建之、世話人伏尾村孫七、
 西面には、「南無阿彌陀佛」(「陀」はこざと篇に「色」)と、戒名?、沢山見える。)
 ドーム型角柱 115x北面38x36p(頂高6p)、台石38x108x74p

写真dimg3685 写真dimg3686 写真dimg3688 写真dimg3689
【7.道供養北面 【8.同西面 【9.同南面 【10.同東面
 旧暦七月は秋のよう】  「南無阿彌陀佛」か】  「大坂住島?屋金兵衛建之」か】  戒名のオンパレードか】

写真dimg3691 写真dimg3692 写真dimg3699
【11.北の道標と対比】 【12.久安寺(西)への道】 【13.池田(南)谷筋の下り】

2022/10/13追記
 余野街道未踏査区間を無くすべく歩いてきました。写真4の左下向きの点線(マンション3号棟東)
 から北に登り、すぐに谷筋を東に登り当道標にでて、谷筋を南に下り左端の点線の道に出て来るとい
 う経路です。
 余野川左岸を北に直線的に抜ける道は90m程行くと分岐点になり北への道(近世〜明治の余野街道)
 と説明のある道は無くなり、そこから東に廻り谷筋を登り当道標に着く。当道標からは止々呂美まで
 写真4で旧道と説明される道の延長部分になります。今回はここで南の谷に下り出発点に戻ります。
  地図上では2q程度の距離で高低差が200m程度と想定出来たので、軽い気持ちでいきました。
 登は半分以上舗装路で尾根筋に出る手前でこの道を離れます。尾根筋から少し東のたわ部分で倒木を
 回避する必要が有るぐらいで、比較的道も良い。但し、当道標から「余野街道旧道」を下ると、名前
 が分らない沢に出会う迄の道は何とか歩けるものの、地理院地図にある、沢左岸(南側)の道は無く、
 北側(右岸)に沿った道らしきものを下る事になります。
  が、この右岸のルートは山崩れ等でとても歩ける状況には無かった。通行はお勧めしません。
 明治の地図との対比今昔マップ on the webを見て頂くと分かりやすいと思います。
 結果、273mとある道標地点迄旧道とされる道が余野街道であったと出来そうであるが、現在では
 地理院地図の沢左岸(南側)の道はなく、右岸(北側)の道も廃道同然で、道標等も見当たらなかった。
 詳細は新サイト「余野街道」を参照下さい。
  上記正面を「北」としていますが、磁針計によると「北東」が近いようです。

 写真を追加しておきます。
写真iimg7403 写真iimg7416 写真iimg7411 写真iimg6616
【14.道標を南に望む 【15.道標北面拡大 【16.道標上面に磁針を置く 【17.旧余野街道
 足元が10p程侵食され  「右 久安寺」  手前が案内のある面  今回調査地図
 全高が高くなっていた】  と読める】  正面は北東にすべきか】  地理院地図より】
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