6.尼崎市神崎町12の道標

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尼崎市神崎町12 化学工場の南西角、東から西への(旧有馬道であろう)道が北に分岐する三叉路の北東部に北を正面に建つ
(西へ直進する道も有馬道間道とされている。)
尖頭形角柱 89x北面29.5x26.5p(頂高4p)(台石14x北面60x65p)
N34.737894 E135.444820


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北面
┌─――――――――――――――――┐
│          親類 春ゑ  │
│  大坂      同  き怒  │
│右            ん免  │
│  西京      八木 重藏  │
│             のぶ  │
│             多に  │
└―――――――――――――――――┘
(「春ゑ、き怒、ん免、多に」は変体仮名「すえ、きぬ、んめ、たに」)

西面
┌─――――――――――――――――┐
│施 第拾壹區神崎村 家内 定七  │
│主 安田仁平    同  王き  │
│人 妻 毛と       弥太良 │
│             き怒  │
│             とみ  │
└―――――――――――――――――┘
(「毛と、王き、き怒」は変体仮名「もと、わき、きぬ」)

南面
┌─――――――――――――――――┐
│右 伊丹 中山 池田 能勢    │
│左 昆陽 小濱 有馬 三田    │
└―――――――――――――――――┘

東面
┌─――――――――――――――――┐
│        伊右衛門     │
│明治十一寅歳  こを       │
│ 第七月吉日  くま       │
└―――――――――――――――――┘

(明治十一年は西暦1878年となる。)
(『尼崎の道標を訪ね歩く』平成27年荒木勉では15)
(北横の説明板に「昭和30年第の道路改良工事により一時撤去され、その後現在の位置に設置」とあり、
 元の位置を図示したものでは、三叉路の北西部としている。
 上記に移動しただけの場合、現在の南面にある「右 伊丹…」が有馬街道を指し、「左 昆陽…」が
 有馬道の間道(昆陽へ)とされている道を示し、一見、良さそうであるが、それだけでは、現北面の
 「右 大坂…」が、西方向へ進むことになり、納得できない。
  明治の地図から想像するに、北からの道が、東に曲がりながら東西の道に合流する、>字状の合流
 点の北西部(鋭角な部分)に、90度反時計回り回転(現北面が西面)して建っていたものかと思う。)
(西面、「第拾壹區」は明治4年の戸籍法発布以降、不評により、明治11年7月22日制定の郡区町村編制
 法で廃止されるまでの住所表現と思われ、建立日が後一月も遅かったなら、制作依頼から建立迄どの
 程度時間が掛かるか知らないが、書かれていなかったかも知れない。ある意味貴重な資料ではないか。)
(北面の「西京」は京都であろう。明治になり江戸が東京なら、京都は西京であったのか。)

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【1.道標を北に望む 【2.道標を東に望む 【3.道標を南に望む 【4.北横の説明板】
 右(東)神崎へ  奥(東)神崎へ  右(西)も有馬道間道
 左奥、有馬道小中島へ】  左、有馬道小中島へ】  左(東)神崎へ】

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【5.北面下部拡大 【6.南面拡大 【7.東面上部 【8.東面下部
 「き怒」の「ぬ」  横の木が剪定され  右側「明治十一…」  「七月吉日…」
 が分かりにくい】  若干見易い】  と読める】  と読める】

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【9.西面拡大 【10.尼崎の道標】
 右側、「施」の下に
 「第拾壹區神崎村」と読める】

 2023年4月26日 追記
 東面の未確認部分が確認出来ました。依って「(( )部は説明板より)」を削除し写真を追加しました。

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【11.東面上部 【12.東面中部 【13.東面下部
 右側「明治十一…」  「十一寅歳」  「伊右衛門」
 左側「第七月…」】  「七月吉日」】  「こを」「くま」】
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