2.尼崎市寺町如来院前の道標

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尼崎市寺町 如来院南側道路、東門の西部に南を正面として建つ
尖頭形角柱 111x南面22x21.5p(頂高6.5p)
N34.71796 E135.411501


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南面
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│左リ 第四番 如来院       │
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東面
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│圓光大師廿五諸国巡拝所      │
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西面
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│  大坂講建之          │
└―――――――――――――――――┘

北面
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│(なし)             │
└―――――――――――――――――┘


(『尼崎の道標を訪ね歩く』平成27年荒木勉では25)
(Web「ウィキペディア」に
 如来院は、元、神崎にあったらしく、5人の遊女に関する遊女塚の逸話と関連が深かったようだが、元和
 4年(1618年)戸田氏鉄の尼崎城築城に伴い、現在地に移転とある。
 円光大師二十五霊場は、法然上人二十五霊場ともいい、浄土宗の開祖である法然ゆかりの寺院二十五箇所
 を巡るものらしい。宝暦年中(1751〜63)の、難波の順阿、洛西の廊誉、二人の僧の発案らしい。
 第三番、十輪寺は、高砂市高砂町横町、第五番、勝尾寺は、箕面市勝尾寺のようで、順番通りに廻ったか
 は、知らない。
 依ってそれ以降の建立となろうが、石を見る限り、古くは無さそうで、明治以降ではないかと思う。)
(元位置候補としては、現在地の東230mの突当りの三叉路
N34.717420 E135.413900
 西、180mの四辻
N34.718409 E135.409556
 辺りが考えられるか。
  『尼崎の道標を訪ね歩く』では、元位置を、『尼崎志第2篇 金石文年表』よりとして、西本町3丁目
 東北面ノ角としている。
 現在の西本町3丁目と変りなければ、
N34.715604 E135.414623
 の辺りと思われる。)

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【1.道標を北東に望む 【2.道標を北西に望む 【3.道標を北に望む
 奥(東)本興寺へ  奥(西)出屋敷へ  右が当道標
 手前、出屋敷へ】  手前、本興寺へ】  左「神崎五人遊女遺跡」】

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【4.尼崎の道標】
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