80.宝塚市芝辻新田オシケ芋の道標

↓末尾へ 文字ずれ時はブラウザの幅や「Ctrl」と「+」、「-」キーで倍率変更等して下さい。
宝塚市芝辻新田オシケ芋 県道33号西谷中東の同道橋交差点から東入る1.4q
(又は、県道68号北摂街道、宝塚市長谷北畑ケの三叉路から南へ1.2q)
長谷大池南東端、変則四辻北西部に南を正面に建つ
頭丸舟形板碑型自然石 84x42x23p(頂高5p)上部幅37p、頂部の後部11p下がる
N34.910244 E135.325828


写真dimg0977

写真dimg0980

写真dimg0982

写真dimg0986

南面
┌─―――――――――――――――┐
│ 右なかたにさそり       │
│       出雲州大原郡   │
│南無阿弥陀佛  西日□村    │
│       行者(嘉右)ヱ門 │
│        世話人     │
│ 左たかひら三田 同村中    │
└――――――――――――――――┘

東面
┌─―――――――――――――――┐
│(なし)            │
└――――――――――――――――┘

北面
┌─―――――――――――――――┐
│(なし)            │
└――――――――――――――――┘

西面
┌─―――――――――――――――┐
│(なし)            │
└――――――――――――――――┘


(( )部は『たからづかの道標』(昭和61年刊)79、より。又、その解説中に、
 「諸国を遍歴する出雲州大原郷出身の行者、を世話した長谷の村民が立てたもの」とある。)
 同名『たからづかの道標』昭和50年発行(上記旧版か)58では、「西日□村」は、西目(日の誤植か)登村と推
 定される。とあり、又、行者の名前も「喜左ヱ門」としている。現在では「島根県雲南市木次町西日登」が存在す
 る。)
(右、長谷、佐曽利と思われ、北西への道を示す。現在では南東、ゴルフ場への広い道があるが、明治の地図には無
 く、東南東、長坂峠への道がある三叉路であったと思われ、左右に分岐する西部に建っていたと想像される。下の
 写真。)

写真dimg0976
【1.この様に見えたのであろうか】

(左、たかひらは高平村(1956年三田と合併)であろう、
 三田市下里172に高平小学校があり、この辺りを指したのか。)

写真dimg0975 写真dimg0992 写真dimg2547 写真dimg0987
【2.道標を北西に望む 【3.右に道標 【4.南面の全体】 【5.上部の写真】
 右(東)側が道標  左、供養塔】  
 
 後ろに光るのが長谷大池  
 
 
 左右の道が主、右長坂峠へ】  
 
 

写真cimg7282
【6.宝塚北部の道標(大正5)】

 【訂正追加 2025年1月】
 南面の読下しが若干増え、訂正し、写真と西日登村の裏付けを追加。
 施主と思われる行者の住所部分「西日」が確定出来た事により、前述の西日登村を『出雲国天保国絵図』より
 探すと同名の村が大原郡に見え、他に「西」の付く村とを識別する事が出来る。
 他は大原郡58ヶ村中に、「西阿用村」があるのみ。
 (江戸時代後期の建立と見なして「天保国絵図」を使用した。)
 尚、下の写真では、「日」の下に「入」「豆」の様に見える事とも矛盾しない。
  行者の名前は下部のみ「ヱ門」と読めるが上部はやはり読めなかった。

写真kimg4047 写真kimg4045 写真kimg4042
【7.南面左下部 【8.南面中央下部 【9.南面右中部
 「行者…」  「西日?村」の?は  「…さそり」「そ」に続く
 「世話人…」  「西日登村」とできるか  「り」の左側ほぼ省略とみて
 「同村中」とある】  「村」は一見「付」のよう】  間違いなさそう】
文字ずれ時はブラウザの幅や「Ctrl」と「+」、「-」キーで倍率変更等して下さい。 ↑先頭へ