92.宝塚市小浜5丁目8の道標

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宝塚市小浜5丁目8 東からの道が南北の道に突き当たるT字路の北東部に南西を正面に建つ
(有馬道が、東からきて北に折れる三叉路)
尖頭型角柱 67x18.5x18.5p(頂高3p)
N34.80736 E135.36515


写真dimg1033

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写真dimg1034

南西面
┌────――――――――――――――┐
│従是右崑陽寺行           │
└――─―――――――――――――――┘

南東面
┌────――――――――――――――┐
│きやうきより尼崎江         │
└――─―――――――――――――――┘
(解説板では変体仮名「より」を「与」としている)

北東面
┌────――――――――――――――┐
│元(禄)十五壬午歳二月中旬     │
└――─―――――――――――――――┘

北西面
┌────――――――――――――――┐
│(なし)              │
└――─―――――――――――――――┘


(( )部は横の解説板より)
(元禄十五年二月15日とすると。西暦1702年3月13日、月曜日となる。)
(南東面「きやうき」を行基とし、伊丹市寺本に有る昆陽寺を指すものとする。地元では昆陽寺を「ぎょうぎ
 さん」と呼んだりする。
  解説板に、平成八年に発掘とあるが、場所が明記されていないが、この場所であったと仮定し、南西面の
「…右崑陽寺行」が示す東方向と、南東面にある「きやうき」に方向が書かれていないので、直進と見なせる
 西方向が、全く正反対となり、「昆陽寺」への方向がが矛盾してしまう。
  そこで、解説板は、南東面を南西面の補足のように捉え、右(東)を指すものと解釈し(ひらかなの表記
 にもなっており補足としても無理は無い)、有馬道(東、宿場東口から安倉)を東に進む案内としている。
  では建っていた場所が現在のように、三叉路の北東部であったなら、何処から来た人を案内しようとした
 か考えてみよう。「右昆陽寺」が東を指すには、南面している必要があり、それが良く見えるのは、南から
 来た人、即ち、昆陽寺のある方向から来た人の為に有るようで、納得できない。
  そこで、これを三叉路の南東部に移し、現南西面を、北面させて置くと、右が南を示してもよく、西面と
 なる「きやうき」も南への道と解釈する事が出来るようになり、この辻から南方への道が「昆陽寺、尼崎」
 と見なせる。即ち北から来た人に、東、有馬道へ進むのではなく、南に直進が「昆陽寺」方面であると教え
 ているとする。
  現在では、この辻を南進すると、幼稚園に突き当たってしまうが、明治の地図では、西へ廻り込んで、安
 倉の村の西をかすめ、伊丹市西野、池尻、寺本へと「昆陽寺」への最短道であり、昆陽寺からも南野、塚口
 と一直線である。)

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【1.道標を北に望む 【2.道路北東角が面取りされ 【3.解説板】
 右側に道標、東は有馬道を宿東口へ  南西を正面として建つ】
 奥は50m先を左折、有馬へ】

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【4.宝塚東部の道標(明治44年)】 【5.宝塚市南部の街道(明治44年)】

(北東面拡大)
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【6.元(禄)十五壬(午)】 【7.壬午歳二月】 【8.歳二月中】 【9.月中旬】

【2022/2月追記】
 現在では北東角の建物が無くなり駐車場となっている。その為か旧来より東に8m程移動され、向きも南西
 面が南面を向き「従是右崑陽寺行」が小浜宿東門を指す様になっている。この状況では東門を出てすぐに中
 国道の手前を南折れ市民病院の東へ出る道を指示するか、有馬道を案内する事になるが、上記で示した小学
 校を突っ切る経路の方が若干距離が短くなる。「今昔マップon the web」の明治の地図
 「たからづかデジタルミュージアム」の文政十年『4小浜村絵図』等を参照下さい。
写真iimg3001
【10.22年道標を北西に望む
 昔は左の道路の南東角を
 45度に削った部分の西寄
 りに置かれていた】
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