81.宝塚市大原野茶谷地蔵台石の道標

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宝塚市大原野茶谷 県道33号西谷中東の同道橋交差点から東入る280m
変則四辻交差点の東の石垣上の民家の南(交差点からは60m)の丘の端に、南を正面に建つ
(南側を南東長坂峠から、西33号同道方面へ向かう道が主要道であったらしい。)
地蔵台石 33.5X南面32X31p 下台石18x42x43p 地蔵49x30x27p
N34.912975 E135.315398


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南面
┌─―――――――――――――――┐
│ 右高平さゝ山         │
│高眼阿闍梨           │
│ 左三田ありま         │
└――――――――――――――――┘

東面
┌─―――――――――――――――┐
│ 寛政五癸丑季         │
│ 九月三日 示         │
└――――――――――――――――┘

西面
┌─―――――――――――――――┐
│(なし)            │
└――――――――――――――――┘

北面
┌─―――――――――――――――┐
│(なし)            │
└――――――――――――――――┘


(南面、「梨」の「リ」部分が「勺」になっている。大字典には同字とある。)
(寛政五(癸丑)年九月三日は、西暦1793年10月7日、月曜日になる。)
(『たからづかの道標』(昭和61年刊)80では、解説中に、
 「81(当資料のbW2大原野茶谷不明の道標)の道標の東側三差路角にあったものを移した」とある。
 1987年までには、既に、ここに移設されていたらしく、明治の地図で見ると、此処より南西100m辺りの、
 大原野井上33にある辻が、旧道の辻に当たるようで、
N34.912862 E135.313896
 変則の四辻となっており、その北西部辺りに設置し、現南面を、東面とするなら、案内に相応しい。
 近接移設としたい。(現在の道は1997平成9年地図に記載有り。))
(『たからづかの道標』に、「右 高平さそり」とあるのは、「さゝ山」の誤植。
 右、「高平」は高平村(1956年三田と合併)であろう、三田市下里172に高平小学校があり、この辺りを指したのか。
 又、「さゝ山」は篠山が妥当か。
  南東から来て、元位置と想定した辻を右に進むと、「bW2.宝塚市大原野岡田20−5の道標」に続く。)
(東面の右側、年号の最下部に「季」とあり、左側同じ位置に「示」とある。「季示」なる熟語が辞書に見当たらず
 単独で読むものとすると、「季」は「トキ」、「示」は「シメス」とし、建設年月日を示すと思う。)

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【1.道標を北西に望む 【2.南側道より地蔵を 【3.地蔵を北東に望む
 右(北東)端が道標  北東に見上げる  地蔵直下の台石に案内
 中央電柱の下が四辻】  手前は擁壁】  地蔵は台石より新しい】

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【4.変則四辻を南東に望む 【5.台石東面
 右端鉄柱の後方に地蔵】  「寛政五…」と読めた】

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【6.宝塚北部の道標(大正5)】

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【7.東面拡大
 「寛政五癸丑 季」
 「九月 三日 示」】

 2025/2/13 訂正 台石東面が読めました。
 東面に関する推定等を削除し、確定文字と、その考察を追加し、写真の差替えを行う。

 参考の為、旧削除部分、二ヶ所を載せて置く。
(東面、年号の「寛」より、西暦1600年以降で該当する年号は
 寛永1624年2月30日〜1644年12月15日
 寛文1661年4月25日〜1673年9月20日
 寛保1741年2月27日〜1744年2月20日
 寛延1748年7月12日〜1751年10月26日
 寛政1789年1月25日〜1801年2月4日
 がありこれらの何れかと思われる。これ以前では寛正1460年等があるが古すぎると思い割愛する。
 多分、寛政四(壬子)年九月三日(1789年10月18日木曜日)ではないか。)

 2025/1/2 訂正 台石東面の一部が確認出来ました。従来未確定としていた
 「□月三日」を「九月三日」とします。
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