59.西宮市元下山口銭塚地蔵脇の道標

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西宮市山口町上山口2丁目11−27 山口町郷土資料館、一階展示室階段下
自然石 100x55x30p(『山口町史』より)
N34.818061 E135.320180


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写真dimg4181

正面
┌─―――――――――――――――┐
│  右ハ大坂          │
│西國順礼供養塔         │
│  左ハ山道          │
└――――――――――――――――┘

左面
┌─―――――――――――――――┐
│         同行     │
│寛政三亥歳四月十八日      │
│         九人     │
└――――――――――――――――┘

他の面
┌─―――――――――――――――┐
│(なし)            │
└――――――――――――――――┘


(寛政三(辛亥)年四月十八日は、西暦1791年5月20日金曜日となる。)
(『西宮歴史散歩案内マップ』市教育委員会、平成20年刊では、山口町郷土資料館と図示。)
(『山口町史』山口町徳風会、平成22年刊、482頁に次のようにある。
 「西国三十三ヶ所巡礼の長い旅に出た九名の人々が満願成就を感謝し、報恩供養のために村の道筋にたてたもので
 ある。…以前下山口の墓地にたっていたが、平成五年山口町郷土資料館ができたとき、同資料館に移され展示され
 ている。」よって、元位置は、西宮市山口町下山口5丁目7の銭塚地蔵の墓地であろうが、道標の機能を持ってい
 ることは、墓地の中にあったとは思えない。明治の地図を見ると、墓地の少し南を南東へ続く現176号の旧道があ
 り、その北側に東に続く小径があり、この道が、左山道に当たるとすると、右大坂が176号旧道にあたり、納得で
 きそうである。もちろん寛政三年時点では、明治の地図と同じではなく、大坂への道は、地蔵堂の前、墓の入口で
 分岐していたと想像する。東への道の痕跡が今も残っているように見える。
  根拠が薄弱ではあるが、銭塚地蔵尊の由来説明板がある
N34.831168 E135.241896
 辺りを元の位置とし、西に面して建っていたとしたい。)

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【1.山口町郷土資料館の 【2.資料館内部 【3.『山口町史』の表紙
 西側入り口を北東に望む  1F?展示室の  資料館で見せて
 此方から入ると2Fか】  階段下に置かれた道標】  いただきました】

写真dimg4151
【4.資料館解説板
 文字は現代的に
 書き換えられている】

写真dimg3911
【5.西宮北部の道標】
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