30.豊中市豊南町東1道標

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豊中市豊南町東1−1 高川西堤防道路の西外に南を正面に建つ
頭丸型角柱 69x南面23x24p(頂高6p)
N34.753743 E135.486715


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南面
┌─――――――――――――――┐
│天神様道           │
└―――――――――――――――┘
(「天」は一見「大」に見える)
(「様」は旧字「樣」の俗字を使用)

西面
┌─――――――――――――――┐
│ソコノ向側          │
└―――――――――――――――┘

北面
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│渡シ場青年會寄附       │
└―――――――――――――――┘

東面
┌─――――――――――――――┐
│大正五年十月建之       │
└―――――――――――――――┘


(大正五年は西暦1916年。)
(『とよなか歴史文化財ガイドブック』2014年、市教委編では、B4_21)
(同書に、「「天神様道」とは、おおよそ三国街道を指すようです。三国街道は…「小曽根の渡し(めいぼ
 の渡し)」から高川堤に沿って北上し、市立しんでん幼稚園付近で勝尾寺街道に合流するまでの道筋です。」
 とある。
  南面は、「大神様道」と見えるが、「大」の上が太く「`」とみて、上記書の通り、「天」とする方が
 良いのであろう。一般的な名として、「おおがみさま」とすれば、天照大神や地名等と考えられるが、近
 辺に、該当する神社や、村名が見えない。「天神」とした場合は、服部天神を示すものと思われ、渡しか
 らそこへ行くには、昭和7年部修の地図でみても、この道が一番近いと思われ、「天神道」に相応しい。
  又、「様」は旧字「樣」ではなく、その俗字である、「永」の部分が「次」に似た「ニスイ」に「久」
 又は「タ」のような字となっている。彫りやすさの為であろうか。)
(現在の位置は、同書の天神様道沿いに立っており、南面の案内は特に違和感はないが、西面「ソコノ向側」
 をどう解釈するかである。「青年会」の有る場所なのか、「天神様道」の場所を示すかの何れかであろう
 が、「青年会」を案内する必要はあまり無いと思われるので、道を案内するものとすると、今の位置では、
 西面が見えず、移設であろうと考えられる。
  「ソコノ向側」が天神様道を指すものなら、間に何かがあり、それを越えて道がある状態であったと想
 像し、その様な地点を探すと、小曽根の渡しを北に渡った、神崎川北岸堤防の上が、最も相応しいと思う。
 それは、豊中市豊南町東3丁目15の、現在「目いぼの渡し跡」碑がある
N34.749270 E135.486651
 辺りで、現、南面と西面が良く見える状態で建っていたものとするのがよい。
  明治の地図で見ると、現地から約480m南、神崎川の堤防の北を高川が合流せず西に曲がっており、高川
 の北岸堤防上に、天神様道(二軒屋から小曽根へ、ガイドブックでは三国街道)が通じている。
 神崎川の堤上から見れば、「ソコノ」は高川を指すものと思われ、渡しを渡ったあと更に、高川を越える
 必要があったためこの様な表現となったと思われる。
 尚、そこには当時「渡場」集落があり、現在も昔の高川の痕跡が読み取れる地形となっている。)

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【1.道標を北に望む 【2.道標を南に望む 【3.南面の拡大 【4.目いぼの渡し跡碑を
 奥(北)小曽根1へ  左上は野田小曽根線の  「天神様道」とした  東に望む、元位置か
 左、高川小学校へ】  下高川橋、右当道標】  四碑面とも凹型に窪む】  背後に旧高川痕跡】

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【5.豊中南部の道標】
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