16.天道道標(吹田市博物館所蔵)

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吹田市岸部北4丁目10−1(常設展示) 吹田市博物館所蔵
(元位置は、吹田市片山町4丁目38−45に建っていたとされる。)
山型板碑型 51x26x18p(頂高8p)(上部のみ前庇3p付き)
N34.783418 E135.528289


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右面
┌────――――――――――――――┐
│享保十八癸(丑正月吉日 大坂住)  │
└――─―――――――――――――――┘

正面
┌────――――――――――――――┐
│(梵字)左 さ(ゐ寺くわんおん道) │
└――─―――――――――――――――┘
(梵字は「キャ」十一面観音菩薩の種子とある)

左面
┌────――――――――――――――┐
│(是より十五丁)          │
└――─―――――――――――――――┘

裏面
┌────――――――――――――――┐
│(なし)              │
└――─―――――――――――――――┘
(( )部は、博物館解説より)


(『すいた歴史散歩』では、3番目)
(『石の声碑の語り』1992年、市長室広報課編には、正面「(梵字)左さゐ」までの拓本が載り、一文字分
 埋められて展示されているようだ。又この書には、左面の拓本が載せられておらず、左面「是より十五丁」
 は毀損部分に書かれていたものと思われる。
 『吹田の歴史学習資料』昭和53年、吹田市教育研究所編、3には、昭和52(1977)年6月破損撤去と
 あり、総高136pとし、南面に「是より十五丁」、西面に「梵字(左がモレている)さゐ寺くわんおん道」
 としている。
 これが正しいなら、展示の正面が、西面であったことがわかるが、「左」は北方向となり、亀岡街道を指
 すことになる。出典や写真等がなく、碑面文字も正しくないため疑問が残る。(後述参照))
(『石の声碑の語り』の地図で、元位置は、片山町4−38としており、
 現在の吹田市片山町4丁目38−45
N34.770664 E135.527839
 と読み取れるが、此処より明治の地図で、佐井寺(片山中学校経由)までの距離(最短ルートで)を推測
 すると、1.8q(16.5丁)となり、距離が二丁も合わない。
 亀岡街道との分岐点で道標設置場所としては文句は無いが、丁石として距離重視の時は、その北にある、
 原町1丁目1のY字路
N34.771835 E135.527598
 辺りが相応しいのではなかろうか。
  尚、『すいた歴史散歩』は「佐井寺観音参詣道」が二本有るとし、「@片山町4−38で亀岡街道から
 分岐して原町を北上し」「昭和52(1977)年まで、分岐点に享保18年造立の板碑型で高さ142pの石の
 道標が建てられていた」としている。(Aは岸部北からの道なので省く)
  是とは別に、『吹田市文化財ニュースbR』昭和54年3月31日、吹田市教育委員会の7頁に、昭和
 35・9・2写 藤井久義氏(佐井寺風土記こぼれ話)よりとあり、上記で示した西面のモレを含む記述と同
 一のものがあり、出典はこの辺りではないか。ただ、この資料には、「片町4丁目38」「天道で亀岡街
 道から分れて原・山の谷を通り佐井寺観音へ向かう参詣道の分岐点に建っていました。」とあり、現、原
 町1辺りから、西へ池の北を通る道を示すとも受け取れ、天道からでも3ルート程考えられる。)

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【1.吹田博物館を 【2.常設展示室の 【3.道標と解説板
 南西に望む  入口に置かれた  20p程度埋められて
 展示室は三階】  道標、甕の左側】  いると思われる】

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【4.吹田市の道標】


天道道標解説板

天道道標(佐井寺観音道)
   板碑 花崗岩
   享保18年(1733)

 江戸時代に寺社参詣が庶民の間にも流行し、佐
井寺は観音信仰の寺として、大坂や北摂近郊か
らも多くの参詣者が訪れました。
 この道標は、天道道標と呼ばれ、かって吹田
の渡から旧吹田村の集落を北上して通る亀岡街
道(亀山街道)から片山4丁目で左に分岐する
する地点に立っていました。上部が山形、身部
が板状の板碑形で、下半分は欠損していますが、
上半分の身正面に、十一面観音を表わす種子「□
(キャ)と「左さゐ」の文字をみることができま
す。欠損以前の記録によると、正面は、「□(キャ)
 左さゐ寺くわんおん(観音)道」、右側面は、
「享保十八年(1733)癸丑正月吉日」と刻まれて
いました。
 江戸時代中頃、佐井寺観音の参詣者の利便の
ため亀岡街道から佐井寺へ通じる支線が開かれ、
それに伴って造立されたと考えられます。紀年
銘をもつ道標としては市内で最も古いものです。

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 2023/11/11 訂正
 今回元位置に関する情報を得ることが出来、その証拠となる写真を載せておきます。但し、建立当時の位
 置のままであるかどうかは保証出来ません。上記の「昭和52(1977)年6月破損撤去」時点の位置である。
 三つの部位に折れたらしく、上部は佐井寺に預けられた後、博物館へ、中部と下部がこの地点に取り残さ
 れたらしい。下記にある写真の東側残石の右面に「正」の字の下部が残っている様に見える。博物館の石
 が「享保十八癸」まで読め、「丑正」の部分が埋っているとするなら、右側の石が中間となり、左側の石
 が下部になると思う。尚、博物館の石がどの程度埋っているか分からないが、浜屋敷で開催の「亀岡街道
 と吹田の道標」展で、加賀眞砂子氏採拓とある写真より、「享保十八癸丑」とその下の「一」迄が見えて
 おり、博物館の石の拓本とし、下記写真の東側残石の右面「止」と合わせて「正」で繋がるとします。
  左面の拓本が無い所を見ると「是より十五丁」は、現在埋った石に刻まれていると考える。
 ただ、この二石を掘り出す事は難しいとの事でした。
  これらより、建立時点から位置が変わっていないとすれば、左面「是より十五丁」は道標に有りがちな
 距離短め表現としなければならない。如何でしょうか。
 『今昔マップ on the web』明治の地図で検討してみるのも面白いでしょう。

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【6.片山町4-38-45、 【7.残石二基を北東に望む 【8.東側残石の南東正面
 元位置を北に望む  左が下部、  「土」の一部と出来るなら
 正面壁下に残石がある】  右が中間部と思われる】  「さゐ寺」として良いか】

写真jimg6237 写真jimg6189 写真jimg6238
【9.残石東側の右面 【10.当道標の拓本 【11.残石二基の左面
 「正」の下部として  浜屋敷で開催の亀岡街道と  両方ほとんど見えず
 よいと思われる】  吹田の道標展より】  文字の有無不明】

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