53.茨木市山手台4丁目の道標3/3

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茨木市山手台4丁目 山手台中央公園北西部、三基の内、東端に南を正面に建つ
尖頭型角柱 73x18x17p(頂高3p)
N34.863198 E135.5511


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南面
┌────――――――――――――――┐
│  大坂 福井 郡山        │
│右                 │
│  茨木 みしま江         │
└――─―――――――――――――――┘

北面
┌────――――――――――――――┐
│   能勢 妙見山         │
│すぐ                │
│   国見 かめ山         │
└――─―――――――――――――――┘

東面
┌────――――――――――――――┐
│   福井村            │
│發起   神田重次郎門       │
│        教子        │
└――─―――――――――――――――┘

西面
┌────――――――――――――――┐
│(なし)              │
└――─―――――――――――――――┘


『わがまち茨木』(道標編)三版、教育委員会、平成19年刊では32)
(同書に「…造成中に掘り取られたものである。清坂街道は以前は、山手台の中を通っていたのである。そこに建てら
 れた道標で…」とあり、移設は間違いないが、これも元の位置は書かれていない。
  現、北面の「かめ山」は、今の亀岡を指すことに疑いが無いとし、Wikiの「明治2年(1869年)三重県亀山市との
 混同を避ける為、亀山から亀岡へと改称される」を信じると、明治以前の建立になるが、明治の地図で検討してみる。
 現、北面の「すぐ…国見…」が南面していて、北を指していたことは、だれも否定できないと思う。
 山手台の中で北、国見、亀岡へ向かう道は、現府道114号と想像でき、「右…福井…」へ分岐する地点が4か所考え
 られるが、郡山、三島を同一方向とするには、山手台に入ってしまうと難しいと考えると
N34.87175 E135.5467778
 辺り、茨木市山手台7丁目11、府道114号から、南、サニータウンへ分岐する三叉路となりこの一点となるが、
 明治22年の地図では、ここは一本道で、辻が出来たのは明治25年頃と思われるので、これは除外する。
  次に、山手台に入り、方向的に、三島は「左(東)」の道となるが、地形の関係で距離が長くなる為、「右」が適
 当である地点として
N34.86519 E135.55055
 辺り、茨木市山手台5丁目9(今は完全に住宅地、安威川沿いの桑原への分岐点)と、
N34.860172 E135.551244
 辺り、茨木市山手台3丁目24−25の西側(今は少し南に三ツ辻がある、旧清坂街道と私見巡礼道との分岐点)
 の二地点が候補となりそうである。
  この道標が、右ばかり案内をしている事を考えると、右が道なりで無かったと考えると、山手台3丁目の地点の方
 に、道標が建てられていた可能性が、高いと思われる。)
(又、同書では、東面の発起人は「神田重次郎」の教え子達であるとしている。)
(同じく、同書では建設年代を、「明治3年(1870)以前、江戸時代にたてられたものと思われる。」としている。)

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【1.道標を北に望む 【2.道標を北西に望む 【3.道標を北東に望む
 左三基が道標、右へ  左から三番目  左(北)大岩へ
 石碑、案内板、古墳】  が当道標】  右三叉路を南東安威へ】

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【4.道標南面拡大 【5.道標北面拡大 【6.道標東面下部
 下部の泥を  能勢と妙見山  「教子」は
 取ってみた】  別地点とするか】  教え子とよむのか】

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【7.茨木北部の道標】
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【8.茨木南部の道
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