13.茨木市太田3丁目の道標

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茨木市太田3丁目1−45−1 東西の西国街道から北神社への道が分岐する三ツ辻の北西部に北を正面に建つ
尖頭型角柱 60X西面19X19p(頂高5p)(基部11X西面29X23p)
N34.841667 E135.57667


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北面
┌────――――――――――――――┐
│  京               │
│左    道            │
│  ふしみ             │
└――─―――――――――――――――┘

西面
┌────――――――――――――――┐
│  とん田             │
│右     道           │
│  ミしま江            │
└――─―――――――――――――――┘

東面
┌────――――――――――――――┐
│(なし)              │
└――─―――――――――――――――┘

南面
┌────――――――――――――――┐
│(なし)              │
└――─―――――――――――――――┘


(『わがまち茨木』(道標編)三版、教育委員会、平成19年刊では88)
(同書に「…現在建っている場所では、この案内はその方角から言ってもおかしいので、もとは別の場所に建てられて
 いたものをこの場所に移しかえたものであろう。」としている。当時(2007年(現在2018年))は、道をはさんで南
 側に建っていたと記憶するが、その移動を除くとして、ほぼ元の位置であるとしてもおかしくない。
  明治の地図で見ると、当地は四辻(七のような形状)で、富田へ行くには、ここで南へ曲がらなければならない。
 町名に名を残す工場が出来るまでは、南東への道は残っていたと想像でき、東太田二丁目5からは現在もその道が続
 いている。
 その辻の、南東部に、現在の向きのままか、反時計回りに45°廻して立っていたなら、案内の方向はピタリとあう。
  南東部としたのは、道標の基礎部分の南東側がワザと削り残されている事に依る。これは、道標の南東角が土手状
 に高くなった地勢を活かし、埋設した時により安定させる為と思われ、今も東に向け高くなる地形に合致している。
 依って、現在の位置は、道路の南側、辻の東側からの近接移動(多分10m程度)としたい。)
(『わがまち茨木』(街道編)、教育委員会、平成4年刊に、この辻から、高槻市富田までを「山家街道」とある。)

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【1.道標を東に望む 【2.道標を西に望む 【3.道標を北に望む
 奥(東)京へ  奥(西)耳原へ  奥(北)太田神社へ
 左、太田神社で行止り】  右、太田神社へ】  左、低い方が当道標】

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【4.道標北面拡大 【5.道標西面拡大 【6.道標東面下部
 「左京ふしみ」は  「右とん田…」は  南東角の削り残は
 西国街道を東へ】  南東、消えた道へ】  土中に有った跡か】

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【7.茨木南部の道標】
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