41.高槻市大冠町2地先の道標

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高槻市大冠町2丁目地先 冠中学校東、枚方街道が北から南へ堤防に上る途中、道の東側に南を正面に建つ
尖頭型角柱 151x東面24x25p(頂高7p)(基部15x28x28p含まず)
N34.832427 E135.640145


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西面
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│右(指差像)河内 枚方 國道貮號        │
│左(指差像)                  │
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南面
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│右(指差像)五領 山崎 向日町 京都      │
│左(指差像)高槻芥川福井豊川富田茨木吹田箕面池田│
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東面
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│此所大冠村大字野中               │
│           大阪府          │
│明治四十二年七月建設              │
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北面
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│直グ 河内枚方國道貮號             │
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(明治四十二年は西暦1909年となる。)
(『高槻の道しるべ』高槻市教育委員会発行、昭和58年刊では、6)
(明治の地図では、この地点で三ツ辻となっており、用水の樋門の為か堤防上の道が西に湾曲しており。そこに北から
 の枚方街道が合流している様に見える。依って一見中途半端な位置に思えるが、堤防上の道が直進に付け替えられた
 だけで、元の辻の位置にそのまま残っている様に思える。尚、当地の東は檜尾川が淀川に合流する地点である。)
(この道標で気になるのは、西面の「左」以下である。元々書かれていなかったものか、消されたものか、何れであろ
 うか。もし、最初から書かれていないなら、辻の構造と道標の設置位置の関係で、「左」が枚方街道と北へ続く堤防
 上への道との区別が出来ない位置に置かれたため空白としたと思われる。
 一方、後に削除したのであれば、現在のように辻が無くなった時点で、地名に齟齬が発生し、消されたもので、この
 場合は「左 五領 山崎 向町 京都」と彫られていたのではないかと思う。
 大正11年測図の地図では、道路はほぼ現在と同じで、この頃に、後者の状況が発生した可能性が高い様に思う。)

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【1.道標を北に望む 【2.道標を南に望む 【3.道標を東に望む
 左奥西折、春日町へ  奥(南)堤防上の  後(東)檜尾川右岸堤防
 右土手上、野田へ】  道と合流し大塚へ】  手前左右が枚方街道】

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【4.道標西面上部 【5.道標南面上部 【6.道標越しに北を望む
 左右の下に  此方も指差し像  道標左の広場は
 指差し像がある】  明治期の流行か】  樋口の構造物かも】

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【7.高槻南部の道標】

2022年8月9日修正
「向町」を「向日町」に訂正。
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