34.高槻市富田町1−6の道標

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高槻市富田町1丁目6−7 JRと阪急の中間の一見すると三ツ辻の南東角に北を正面に建つ
(西に幅2m程度の路地があり、四辻ではある)
尖頭型角柱 199x北面37x36.5p(頂高含まず)
N34.836464 E135.593588


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北面
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│常見寺 東へ             │
│     三丁            │
└―――――――――――――――――――┘

東面
┌―――――――――――――――――――┐
│(なし)               │
└―――――――――――――――――――┘

南面
┌―――――――――――――――――――┐
│(なし)               │
└―――――――――――――――――――┘

西面
┌―――――――――――――――――――┐
│(なし)               │
└―――――――――――――――――――┘




(『高槻の道しるべ』高槻市教育委員会発行、昭和58年刊では、15)
(同書では、町石とし、「大正13年に摂津富田駅がつくられたのちに立てられたものであろう。」としている。
 明治の地図では、当所に道は無く20m東に現在も残る南北の小径があるのみで、大正12年測図の地図も同様であ
 る。依って、道が造られたのもJRの駅と共にと思われ、上記の考えに至ったものであろう。
  寺を、東五百住町3−4にある「利井常見寺」とし、寺北東の辻より3丁(330m)南廻りで駅方向へ向かうと、
 今の桜ケ丘南町21の三ツ辻辺りとなり、此処から移設した可能性が出てくる。(阪急線路沿いは道が無いとし考慮
 せず。)
  此処からの移設であれば、明治の地図にも載っている辻となる為、上記の建設時期は根拠を失うかもしれない。
 もし、「東へ」の文字が無ければ、南方の五百住小学校の北西角、高槻街道から北に分岐する三ツ辻とするだろう。)

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【1.道標を東に望む 【2.道標を南に望む
 奥(東)常見寺へ  左(東)常見寺へ
 左、JRの駅へ】  奥、阪急の駅へ】

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【3.高槻南部の道標】
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