39.高槻市田能の自然石道標

↓末尾へ 文字ずれ時はブラウザの幅や「Ctrl」と「+」、「-」キーで倍率変更等して下さい。 二基の内南側

 2023/5/27 場所説明に誤り、訂正
高槻市森脇田能 府道115号、府道6から733号に東折れ500m最初のピークの三ツ辻北東部、路肩に南を正面に建つ
自然石 81x74x44p
N34.959846 E135.596293


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西面
┌―――――――――――――――――――┐
│       羽州秋田郡川尻村    │
│          亀之助      │
│        俗名         │
│右 あなう     は川       │
│     道   文化九申正月廿三日 │
│左 妙見     随雲妙喜信士    │
│        為  同廿四日    │
│         松山智貞信女    │
│        施主 村中      │
└―――――――――――――――――――┘
(「あなう」は「穴太寺」であろう)
(「は川」は変体仮名「はつ」であろう)

北面
┌―――――――――――――――――――┐
│(なし)               │
└―――――――――――――――――――┘

東面
┌―――――――――――――――――――┐
│(なし)               │
└―――――――――――――――――――┘

南面
┌―――――――――――――――――――┐
│(なし)               │
└―――――――――――――――――――┘


(文化九(壬申)年正月廿三日は、西暦1812年3月6日金曜日となる。廿四日はその翌日。)
(『高槻の道しるべ』高槻市教育委員会発行、昭和58年刊では、73)
(同書では、「…旅先で死んだ旅人の供養をかねて村中でたてたものであり、死んだ2人は秋田から来た巡礼者であっ
 たよう。」としている。現在秋田市に川尻町があり、ここであろうか。
 国立公文書館デジタルアーカイブ『天保国絵図出羽国秋田』で、久保田城のすぐ西に「川尻村」が見える。
 どこへの巡礼であったのだろうか、又正月廿三、四日と連続して亡くなった所を見ると、遭難でもしたものであろう
 か。)
(又、同書に「立っている位置からすると西国20番吉峰寺と21番穴太寺を結ぶものであったと推測され…」とあり、大
 幅移設が無かったと受けとり、明治の地図を見ると、「右穴太寺」が西を指すことになり、この位置では、東面か、
 或いは、北面して建っている必要がある為、20m南の三ツ辻も含め、近接移設は避けられないと思える。)

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【1.道標を南東に望む 【2.道標を北に望む 【3.南20m三ツ辻前より
 左(北)畑中へ  奥(北)畑中へ  道標の辻を北西に望む
 右奥、出灰方面へ】  左手前、田能へ】  道標は「止まれ」の下】

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【4.道標の西面拡大 【5.道標西面下部 【6.「まちかど遺産」案内板
 自然石とはいえ  「羽州秋田郡…」  『高槻の道しるべ』と
 碑面は整えられている】  何処を通って来たのか】  ほぼ同じ解説】

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【7.高槻北部の道標】
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【8.高槻中部の道標】
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【9.高槻南部の道標】
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