1.島本町高浜の道標

↓末尾へ 文字ずれ時はブラウザの幅や「Ctrl」と「+」、「-」キーで倍率変更等して下さい。
三島郡高浜1丁目14−11 南北の高浜道から東渡しへの三ツ辻の北東部、民家の壁際に南を正面に建つ
(常春寺東、砲台跡から南へ100m)
山型角柱 117x23.5x13p(頂高3p)(基部24x26x16p高さに含む)
N34.872998 E135.670411


写真fimg0793

写真fimg0795

写真fimg0794

写真fimg0796

南面
┌――――――――――――――――――┐
│右 八幡              │
│    道             │
│左 京               │
└――――――――――――――――――┘

西面
┌――――――――――――――――――┐
│(なし)              │
└――――――――――――――――――┘

東面
┌――――――――――――――――――┐
│(なし)              │
└――――――――――――――――――┘

北面
┌――――――――――――――――――┐
│(なし)              │
└――――――――――――――――――┘


(南面「八幡」は淀川東岸、京都府の八幡と思う。明治の地図で渡しは樟葉に繋がっており、八幡へは舟でなく徒歩で
 あろう。尚、右左の案内がシックリくるためには、南西面を向いている良いと思える。)
(『史跡をたずねて』島本町教育委員会発行、平成18年刊では、201)
(当道標は、高浜の渡しがあって始めて意味を成すもので、渡しが無くなった昭和16年以前の建立に間違いはない。
 同書に、「享保二(1717)年水無瀬川付替工事で、広瀬の渡しが不勝手になり、翌年より人馬の通行が多くなった…」
 とあることから、通行人の便を考え、それ以降に建と考えるべきか。
  一方、東岸からの渡し利用者が、西国街道を下る道筋として「淀川堤−道標−字長畑−村界道−小田橋−村界道−
 牛池堤−野道−西国街道」としているが、この道標に、「南、南西」を指示する案内は無い。
 その理由としては、@現東面の幅が狭く「文字が彫れなかった」、A「そちらに進む人が少なかった」等が考えられ
 るが、@であれば、多少経費は膨らむものの石幅を厚くして建てたであろう。ならば、Aが正解であるとすると、前
 述の通行人が増える以前の建立と考える方が自然ではなかろうか。そうなると相当古いものとなるが。)

写真fimg0787 写真fimg0790 写真fimg0804
【1.道標を北に望む 【2.道標を南に望む 【3.道標を東に望む
 奥(北)広瀬へ  奥(南)道なりに西に  奥、現堤防階段を
 右、現堤防の階段へ】  曲がり上牧駅へ】  越え河原への道】

写真fimg0799 写真fimg0823 写真fimg0810
【4.道標南面拡大 【5.道標を西に望む 【6.堤防上から
 「左京」は奥(北)  渡しからの人は京都  道標を西に望む
 への道を指示する】  方面が多かったのか】  突当りが三ツ辻】

写真eimg6776
【7.島本町の道標】
文字ずれ時はブラウザの幅や「Ctrl」と「+」、「-」キーで倍率変更等して下さい。 ↑先頭へ