11.猪名川町南田原の道標

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猪名川町南田原 南田原から村上新田、銀山への道の途中から北西へ野道が分岐する三ツ辻の
北西部に南東を正面に建つ
(町立図書館の北西250mの距離であるが、ピクニック道しかないようだ。青ノ池の下150m)
墓石、蒲鉾型角柱 48x22x13p(頂高3p)(龕部40x16x-1p下から5pより)(台石27x37x30p半樽型)
N34.906517 E135.361014


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南東面
                 ┌―――┐
┌―――――――――――――――┐│施 人│
│    右 やま       ││ 寺 │
│厭室浄秋信士  道      ││ 子 │
│    左銀山三田      ││ 中 │
└―――――――――――――――┘│   │
                 └―――┘

北東面
┌―――――――――――――――┐
│文政四年巳四月九日      │
└―――――――――――――――┘

北西面
┌―――――――――――――――┐
│(なし)           │
└―――――――――――――――┘

南西面
┌―――――――――――――――┐
│(なし)           │
└―――――――――――――――┘


(文政四年(辛巳)四月九日は、西暦1821年5月10日木曜日。)
(『猪名川町の道標』教育委員会1979年刊では9)
(同書では南東面の戒名を「玄室…」としているが明らかに「玄」ではない。「厭室…」とした。「厭」は
 「エン」と読み、あきる、いとう、きらう、等の意味があるらしく、世の中が嫌になり(厭世)酒ばかり
 を喰らっていた為に付けられた戒名ではと想像した。同書に「土地の医者であり酒豪であった…」として
 いることや、酒樽型台石に「施人、寺子中」とあるなど村人に慕われた人の様に思われ、死後も道案内を
 以て役立っておられるようである。
  尚、「浄秋」の「秋」も「佚、休、伏」等にも見え「佚」イツ(のんびりする)が相応しと思うが、同
 書に従った。)
(南東面の案内で「右やま道」は北西の池への道で、行止まりの様であるが、未踏査である。
 「左銀山三田」は現在も近畿自然歩道として整備されており、一度北の村上新田へ廻り込むが、そこから
 南にとれば銀山、西に向かえば芝辻新田に出て三田方面への道となり、案内に問題はないと思う。)

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【1.道標を西に望む 【2.道標を北東に望む 【3.道標を北西に望む
 奥(南西)青ノ池へ  奥(東)南田原集落へ  奥(北西)「やま道」
 左上にふれあい公園】  八幡神社へ約900m】  未調査だが行止りか】

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【4.道標南東面を見る 【5.道標南東面上部 【6.酒樽型台石部拡大
 酒樽の上に載る  「厭室浄…」  「施人」縦書き
 墓石は珍しい】  「秋」は「佚」か】  「寺子中」とある】

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【7.道標南東面左下 【8.道標南東面右下 【9.道標北東面拡大
 「左銀山三田」  「右 やま」  「文政四年巳四月九日」
 「銀」は読み難い】  と読んだ】  と読んだ】

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【10.猪名川町北部の道標】
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【11.猪名川町南部の道標】
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