18.猪名川町民田の道標

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猪名川町民田寺下99 善久寺の東側墓地の最上部に西を正面に建つ
山型板碑 103x40x26p(頂高13p)(上部に接合跡が残る、南西角から北西19p、北東7p、南東角へ)
N34.934285 E135.394118


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西面
┌――――――――――――――――――┐
│  ……   年          │
│ 宏宗寶参尼上座塔右ハたみ田    │
│  六月二十六日          │
│南無観世音         道   │
│         左ハいけ田    │
└――――――――――――――――――┘
(「…」は解読不可、四文字程度)

南面
┌――――――――――――――――――┐
│ 文政十一子三月上日        │
└――――――――――――――――――┘

東面
┌――――――――――――――――――┐
│(なし)              │
└――――――――――――――――――┘

北面
┌――――――――――――――――――┐
│ 世話人              │
│  観音講中            │
└――――――――――――――――――┘


(『大阪の街道と道標』武藤善一郎1999年刊では180頁)
(同書では丹州街道古道−1としてカイモリ峠から大部峠間の道が記され、この辺りの経路を善久寺のす
 ぐ西下を通り、民田神社の南を廻り込み、民田の西の峠の鞍部で南の大部峠に登る道が書かれている。
 明治42年測図の地図で旧丹州街道を見ると、民田の集落を通過することなく西の尾根筋を直線的に通過
 し、民田の西の峠の鞍部に最短経路で続く様に描かれ、寺の下を通過する道は小径として描かれている。
 現在当道標は墓地上部にあり移設は明確であろう。文政の頃の道を上記明治の地図で広い方の道として
 その旧丹州街道上で案内に相応しい場所が見つからない。元位置は何処であったものか。又上記の小径
 で書かれた道上としても、民田の集落中で民田を案内することもなく、相応しい辻は見つからない。)
(同書に西面の右端を「□応二年」とあるが、年の上が「卯」の様にも見え慶応三年なら丁卯となり都合
 が良いが、その上が「四」にも見え読み下せない。
  ただ、「南無観世音」の前には「六月二十六日」と明確に読め、右側に年が書かれていても不思議で
 はない。しかし南面にはこれまた「文政十一子三月上日」と紀年銘が西面以上に深く彫られておりこれ
 との関係をどう見るかである。考えられるのは追刻であるが、どちらが後なのか。刻み跡から見ると、
 西面「南無観世音」と南面「文政十一…」と道案内部が同じで力強く、西面右部分と北面「世話人…」
 が浅く弱く見えこれを追刻とすると、「…尼」を顕彰する為等であったものか。又、上部が割れている
 が非常に綺麗に接着されており是が何時の事なのかも気になる。)
(文政十一(戊子)年三月1日とすると、西暦1828年4月14日月曜日となる。)
(慶応三(丁卯)年六月二十六日とすると、西暦1867年7月27日土曜日となり約40年後となる。)

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【1.善久寺を北に望む 【2.道標を東に望む 【3.道標を東に望む
 右手の新しい墓地  地蔵右の山型板碑が  右、文政十一の当道標
 最上部に当道標】  当道標、道は無い】  左、元禄四年の万霊塔】

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【4.道標西面下部拡大 【5.道標西面右上部 【6.道標を西に望む
 「右ハたみ田」  「宏宗寶…」の右が  旧丹州街道は左の峠から
 「左ハいけ田」】  読めない】  道標の上部の尾根筋に続く】

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【7.道標西面左下拡大 【8.道標西面右下拡大 【9.道標北面下部
 「左ハいけ田」  「右ハたみ田」  「世話人」
 と読める】  と読める】  「観音講中」と読める】

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【10.猪名川町北部の道標】
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【11.猪名川町南部の道標】
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