2.大阪市西成区玉出東2の道標

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大阪市西成区玉出東2−6−9 阪堺線東玉出駅南へ120m五辻の南東方向への道の北側に西を正面に建つ
角柱 122x21x14p
N34.625489 E135.495521


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西面
┌─――――――――――┐
│すぐ帝塚山      │
└―――――――――――┘

南面
┌─――――――――――┐
│東三軒目北側 森建之 │
└―――――――――――┘

東面
┌─――――――――――┐
│(なし)       │
└―――――――――――┘

北面
┌─――――――――――┐
│(なし)       │
└―――――――――――┘


(『大阪の街道と道標』武藤善一郎、平成11年発行では、265A
 『大阪市立博物館研究紀要第三冊』1970(昭和47)年発行には未記載)
(案内先は帝塚山古墳であろう。明治の地図でも小径が描かれ、ここから帝塚山を訪れる事は不思議ではないが、現
 阪堺線の通る紀州街道から帝塚山へは300m程南の辻が本筋であろうと思うが、此処に建てた理由を考えてみた。
  南海本線(阪堺鉄道)1885年に開業、明治40(1907)年玉出駅開業(南海電鉄HPより)とあり、明治の地図では
 現在(2020)の玉出駅の南端辺りに駅が有った様で、駅東から南東に当辻に出て紀州街道を横断し直線的に帝塚山
 への道が見え、この辻より後は道なりに進めば辿り着くのであるが、如何せん、この直進する道が細かったようで、
 広い紀州街道を南に曲がることが無い様に、直進を案内したものであろう。
 玉出駅利用者の利便を図ったものとなると、駅の建設後に建てられたものと思う。後に南海高野線帝塚山駅が昭和
 9年(1934)12月に開業とあるので、この間の建立と考える。
  施主であろう方と同名の表札を近辺で見たが、ここに住まわれていたとするなら、北東方向に大きく傾いてはい
 るが、ほぼ元位置のままであろう。)
 

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【1.道標を北に望む 【2.道標を東に望む 【3.道標を南東に望む
 左奥(北)阪堺線  右奥への道が  奥(南東)坂を上り
 東玉出駅へ】  帝塚山古墳へ】  高野線帝塚山駅へ】

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【4.道標を北東に望む 【5.道標西面拡大 【6.道標南面拡大
 左側が西面  「すぐ帝塚山」  「東三軒目北側」は
 「すぐ」は右南東へ】  と読める】  施主の住所であろう】

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【7.道標を北西に望む
 左右が紀州街道
 奥200m本線玉出駅へ】

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【8.大阪市阿倍野区の道標】
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