2.神戸市灘区岩屋中町4の道標

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神戸市灘区岩屋中町4丁目5−1 龍泉寺南東角、壁際に南を正面に建つ
(国道2号線岩屋中町4交差点の東220mの交叉点を北入る20m)
頭丸型角柱 55x19x17p(頂高3p)
N34.703231 E135.219786


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南面
┌─―――――――――――――――――┐
│右京大坂              │
└――――――――――――――――――┘

東面
┌─―――――――――――――――――┐
│摂州敏馬              │
└――――――――――――――――――┘

北面
┌─―――――――――――――――――┐
│(なし)              │
└――――――――――――――――――┘

西面
┌─―――――――――――――――――┐
│左龍泉寺              │
└――――――――――――――――――┘


(「摂州」や「京大坂」等の表現から江戸期の建立であろうと考える。)
(場所を確認しておきましょう。龍泉寺(りゅうせんじ)は灘区岩屋中町4−5−1、摂州敏馬(みぬめ)を神社と
 すると寺の西50mの岩屋中町4−1−8、京・大坂については略すが西国街道か浜街道を案内するのであろう。
  注意がいるのは「摂州敏馬」を案内とするか、当地や施主の地名とするかである。ここでは方向を示しておらず
 神社や寺の門前ではないので、村名や字になるものと考える。村名なら「岩屋村」で字なら神社付近であろう。)
(龍泉寺について、国立国会図書館デジタルアーカイブの『攝津名所圖會』. [11]のコマ番号45に「別当龍泉寺社の
 東にあり禅宗、薬師仏を安す」とし、同コマ46の絵図には「本社」とした神社の東の石垣の上に龍泉寺が描かれ
 間に小川があり谷を挟んでいたようだ。浜街道は正味「浜」であったようで道らしき様子はないが川には橋が掛け
 られている。
  北に位置する旧西国街道に建っていたとするなら「右京大坂」が東を指すのは疑いなく、この時「左龍泉寺」が
 北を指す事になり矛盾する。では現在地にあったならば「右京大坂」は浜街道に出るべく南を指し「左龍泉寺」が
 北を指し僅か10m北の寺の入口を案内すると受け取れ、その必要があるか疑問に思える。次に浜街道に建っていた
 とするなら東西の街道から北50m程の少し高い位置にある寺を案内しても問題は無い。明治の地図から辻の位置を
 想定すると
N34.702852 E135.219951
 辺り、現43号線の南車線辺りと思われる。
  前述の名所図会をみると、ほぼ現在地に三ツ辻が見え辻内での移設とするなら、南東部に90度時計回りに回転し
 て置かれていたとも考えられる。寺域の東半分が削られた様に見え現在の三ツ辻とは異なり南から北に突き当たる
 T字路に見える。この場合近接移設となる。
  更に、摂津敏馬を岩屋村まで拡大すると、上記の90m東の三ツ辻
N34.703071 E135.220939
 辺りとすると、浜街道から岩屋北町辺りを通過していた旧西国街道への接続道の分岐点も考えられる。
 この場所では、右京大坂は浜街道を指してもよく、左龍泉寺は西になり辻北側に置けば問題は無いが少し遠いか。)

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【1.道標を北に望む 【2.道標を北東に望む 【3.道標を南西に望む
 左上、龍泉寺  左上、龍泉寺  左(南)43号線
 背後、43号線】  右(南)43号線へ】  奥路地、人のみ通行可】

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【4.道標を北に望む 【5.道標上部を北に望む 【6.道標東面上部拡大
 江戸期に北への  下辺が南面  「摂州」
 道は無かったかも】  北面は見えない】  と読める】

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【7.道標西面拡大 【8.道標南面拡大 【9.道標東面下部拡大
 「左龍泉寺」  「右京大坂」  「敏馬」とした
 と読める】  と読める】  住所であろうか】

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【10.神戸市東部の道標】
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