1.神戸市中央区多聞通3の道標

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神戸市中央区多聞通3丁目 湊川神社内、山門北20m東側に南を正面に建つ
尖頭型角柱 169x29x30p(頂高8p)(台石9x59x58p)
N34.680972 E135.176157


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南面
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│従是楠公石碑道             │
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東面
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│(なし)                │
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北面
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│ 弘化三年丙午夏五月再建        │
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西面
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│従是くすのき公せ起ひみち        │
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(「起」は変体仮名「き」)


(弘化三(丙午)年五月1日とすると、西暦1846年5月25日月曜日となる。この年5月に閏月あり。)
(『神戸の道標』山下道雄、神戸新聞、1985年刊では中央区11)
(同書にこの道標の経緯が載り、まとめると「水戸光圀公の「嗚呼忠臣楠子之墓」建立後、西国街道沿いに時期不明
 の「従是くすのき公せ起ひみち」と書かれた石碑が立ち、これが毀損の為当道標が建てられ、明治期の道拡幅時に
 境内に移設後忘却、昭和九年に発見し現位置に設置」とある。即ち二代目の道標で、元西國街道沿いに建っていた
 事が分かる。
  西國街道は今の神戸駅の北側辺りを通っていたとされ、駅から現在(2020)の楠公墓碑まで200m程度と思われ、
 『蜀山人全集.巻1』吉川弘文館の『革令紀行』にある「右に三宮大明神あり、神戸村を出てはた中を行き、道より
 右の方に三町ばかり入りて堂あり…」とは約1丁(109m)の差が出るため、丁度駅の中辺りに辻が有ったのでは
 ないか。文化元年八月十八日(1804年9月8日金曜日)の事であるから、再建前の道標を見たのであろう。)
(「湊川楠正成墳」を国立国会図書館デジタルアーカイブ『攝津名所圖會』. [9]コマ番号18の絵図で見ると、
 西國街道と思われる道の北に楠碑を覆う堂が書かれ、街道の分岐点北側に二基の石標らしきものが書かれているが
 それがこの道標かどうかは分からない。この本の出版が寛政8年(1796年)とあり道標再建前となる。
  有馬喜惣太の『行程記』明和元(1746)年にも三ツ辻西側に「従より楠公石碑道」とする杭が描かれている。
  湊川神社HPに「明治5(1872)年5月24日湊川神社創建、元禄5(1692)年水戸光圀公「嗚呼忠臣楠子之墓」
 碑建立」とあり、元の道標(再建前)が出来たのも元禄より前には遡れないであろう。楠公碑の建設逸話などから
 察すると同時に建てた可能性が高い様に思える。)

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【1.道標を北東に望む 【2.道標を北に望む 【3.道標を南西に望む
 左右は表門の扉  奥(北)社殿へ  左(東)楠公碑へ
 中央に当道標】  右、楠公碑へ】  奥、表門出て多聞通り】

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【4.道標西面拡大 【5.道標南面拡大 【6.道標北面上部
 「くすのき公せきひ」  「従是楠公石碑道」  「弘化三年丙午」
 とかなで書く】  と読める】  と読める】

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【7.表門から道標を望む 【8.神社境内案内図 【9.道標北面下部
 門の右に楠公碑  当道標はないが  「…五月再建」
 なにか不自然】  表神門の「神」辺り】  元道標は元禄5年か】

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【13.嗚呼忠臣楠子之墓碑
 碑面文字部を加工した
 変った書体に思うが】

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【14.神戸市中部の道標】
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