17.神戸市中央区北長狭通1の郡界碑(道標では無い)

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神戸市中央区北長狭通1丁目20−12 地下鉄三宮東8番出口北10m、北向き地蔵東部に北東を正面に建つ
山型角柱 101x24x20p(頂高6cm)
N34.694641 E135.192878


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北東面
┌─―――――――――――――――――――┐
│八部                  │
│  両郡界生田             │
│兎原                  │
└――――――――――――――――――――┘

北西面
┌─―――――――――――――――――――┐
│(なし)                │
└――――――――――――――――――――┘

南西面
┌─―――――――――――――――――――┐
│(なし)                │
└――――――――――――――――――――┘

南東面
┌─―――――――――――――――――――┐
│(なし)                │
└――――――――――――――――――――┘


(『神戸の道標』山下道雄、神戸新聞、1985年刊には未記載)
(「諏訪山町3の道標」と関連し載せた。)
(Webに「明治初期に建立され…八部郡と菟原郡の郡界が旧生田川だったことを示す。当初は旧生田川の堤にあった
 が近代北野川沿いに移設され更に平成初期北野川が暗渠になったことにより現在地へ移された。」とする資料があ
 り、これに従えば明治12年(1879)郡区町村編制法以降の建立となり、明治29年(1896)郡制の武庫郡となる
 までの間と成ろう。建設位置は、旧生田川提とするが、明治4年(1891)に旧生田川が付け替えられており、矛盾
 があるようだ。又別の資料に「元は旧生田川の堤防にあったものがここ北向地蔵の隣に移された」とだけあり、こ
 れの解釈からすれば、明治4年以前の建設となり、それによれば「両郡界生田川」としていることから、旧生田川
 の西岸であればほぼ元位置近いと出来る。別の見方で考えてみよう。
 『摂州菟原郡図』によると、生田村の西に生田川が流れ、南に西国往還が川を渡った地点に「是より西は八部郡」
 と書き込まれている。『行程記』には生田川の川幅は「広十二間(22m)水無シ」とあり川の西に「郡境村境」と
 赤〇印が書かれている。
 神戸市のHP等から旧生田川をフラワーロード(県道30号)とすると、当地は西に80m離れた地点である。又同じく
 「フラワーロードは昔、生田川だった 」には「江戸時代末期〜明治初期の生田川は川幅80〜100m程度」とあり、
 絵図にある位置に一致し、「旧河川の敷地と沿岸の土地…現在の加納町」とある加納町は道の東側である。)

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【1.界碑を南に望む 【2.界碑を南西に望む 【3.界碑を北に望む
 奥(南)生田新道へ  奥、生田神社へ  奥(北)異人館へ
 壁に接して当界碑】  右(北)異人館へ】  左、生田神社へ】

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【4.界碑北東面拡大 【5.界碑北東面下部 【6.界碑の東にある北向き地蔵
 境界線は南北に走り  「生田…」何か続き  を南東に望む
 現状にそぐわない】  「川」とするもの有】  左端が当郡界碑】

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【7.神戸市中部の道標】
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