5.神戸市須磨区天神町3の道標

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神戸市須磨区天神町3丁目4−10 旧西国街道行幸町4交差点西80m道路南側緑地中に南を正面に建つ
尖頭型角柱 94x18x17.5p(頂高4p)
N34.646986 E135.118371


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南面
┌─―――――――――――――――――┐
│聖跡廿五拝             │
│     綱敷天満宮寶前      │
│第十四番   三田篠光謹書     │
└――――――――――――――――――┘

東面
┌─―――――――――――――――――┐
│(なし)              │
└――――――――――――――――――┘

北面
┌─―――――――――――――――――┐
│(なし)              │
└――――――――――――――――――┘

西面
┌─―――――――――――――――――┐
│     東京           │
│ 發起人   松浦武四郎      │
└――――――――――――――――――┘


(『神戸の道標』山下道雄、神戸新聞、1985年刊では須磨区7)
(方向や距離が無く道標とするかは微妙だが、綱敷天満宮迄300m程あり、街道筋に建ち、「…前」とあるところから、
 「綱敷天満宮」への案内として受け取れるので載せる。
  北の説明板にもある様に移設されている。元は三ツ辻南西部に北面(180度回転)していたようだ。)
(Wikiに「松浦 武四郎、文化15年(1818年)〜明治21年(1888年)」とあり、その他「松浦武四郎は明治18年1月迄
 に西日本の天満宮二十五社を聖跡とし、小神鏡と石標を奉納」とする資料があり、それには「明治八年北野天満宮
 に奉納」ともあり、建設時期は明治八年から明治二十一年(1875〜1888年)頃となろう。又、Web上の資料ではあ
 るが、「明治17〜19年(1884〜1886)にかけて関西を遊歴」、「高砂市の十六番曽根天満宮の石の銘文『岡本迪
 七十五歳』からして明治18年(1885)の製作が分る」を信ずるなら、ほぼ同年であろう。
  石肌が黒く、彫も浅いので非常に読み難いが上記資料によれば、「石材は黒に近い灰色…安山岩系と黄白色に近
 い灰色…凝灰岩系の二種類」「東京で多く使われた伊豆半島産石材」「同一規格で製作されたものと思われる。」
 「六寸角、三尺半の石碑」とあり、この辺りでは見かけない雰囲気を持つ。)
(閑話休題、境内にある「北海道の名付け親」解説板にのる、同氏の奉納銅鏡の写真に当道標とよく似た文が刻まれ
 ているが「須磨敷天満宮」とある様で、願主東京風月堂が書き損じたものか、実物を見てみたいものだ。)

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【1.道標を東に望む 【2.道標を北に望む 【3.道標を西に望む
 奥(北)西代へ  右(東)西代へ  奥(南西)須磨へ
 左、県道21号】  左南へ向い須磨へ】  左路地南は天満宮へ】

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【4.道標西面上部 【5.道標南面上部 【6.道標北の解説板
 「發起人」  「聖跡廿五…」  左南西角は春日神社
 と読める】  「第十四番」】  右祠内に当道標】

写真himg1315 写真himg1679 写真himg1320
【7.道標西面中部 【8.道標南面中部 【6.道標を南に望む
 「東京」  「綱敷天満宮」  奥(南)天満宮へ
 「松浦…」と読める】  と読める】  路地口が元位置か】

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【10.道標西面下部 【11.綱敷天満宮を 【12.天満宮の解説板を東に望む
 「…武四郎」  北に望む  銅鏡「須磨」の下
 と読める】  境内に別道標あり】  「縄」に見えるのだが】

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【13.神戸市南西部の道標】
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