9.大阪市東淀川区瑞光4の道標

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大阪市東淀川区瑞光4−12−23 府道16号大阪高槻線の南江口歩道橋交差点の南西部歩道上に北を正面に建つ
角柱 167x30x30p(南面指像9.5x20x2.5p)(北面指像9.5x19.5x2.5p)(台部39x82x82.5p)
N34.754123 E135.550098


写真himg2361

写真himg2362

写真himg2363

写真himg2365

北面
┌─――――――――――――――――┐
│君堂参道(左指差像)東へ300米 │
└―――――――――――――――――┘
(「東へ300米」は横書き)

西面
┌─――――――――――――――――┐
│昭和四十二年八月吉日       │
│   江口町有志一同建之     │
└―――――――――――――――――┘

南面
┌─――――――――――――――――┐
│江口の君堂参道          │
│           (右指差像)│
│ この道を東へ300米      │
└―――――――――――――――――┘

東面
┌─――――――――――――――――┐
│大阪市顕彰史跡          │
│       君堂        │
│江口の里             │
│        大阪市長 中馬馨書│
└―――――――――――――――――┘


(『大阪の街道と道標』武藤善一郎、平成11年発行では、210頁)
(道標とするかは微妙であるが、行先や方向、加えて距離まで書かれており、道標の要件は満たしている。
 昭和42年の地図を見ても道路の状況は今とほぼ変わらず、ほぼ元位置に置かれていると思うが、この道標から、
 寂光寺北側の入口迄でも380mもあり、300mはこの手の案内では常套手段であろう。)
(西行法師と遊女江口の君の話は多分皆様の方がよくご存知かと思いますが、少し述べておきます。
  平安後期の高名な学者、大江匡房が「遊女記」のなかで、神崎と対岸の蟹島(加島)と上流の江口を「天下第一
 の楽地」と評しているようで、昔からの大きな町であったと思われる江口であるが、当道標は、妙女(江口の君)
 が仏門に帰依し、庵を結んだと伝える寂光(じゃっこう)寺への案内で観光目的が第一であろう。寺の東側の道か
 らでも「世乃中をいとふまてこそか多可らめ/かりのやと里をおしむきミ可那/西行法師」の石碑がみえる。
  これらは、国立国会図書館デジタルアーカイブ『攝津名所圖會』. [3]のコマ番号71等を見ると面白い。
 上記の加島や神崎へはこの江口街道を西に進み、中島街道の下新庄を経て、三国で能勢街道を少し南下し、野中か
 ら西折れし、三津屋で中国街道に乗れば陸路で、他の「楽地」に繋がっている。神崎には元禄五年(1692)銘の
 石塔が残っており、入水した五人の遊女を弔った遊女塚があるが、これを案内する石碑等は無さそうである。
 こちらは、『攝津名所圖會』. [8]のコマ番号37に鎌倉時代初期の建永2年(1207)春、讃岐へ流される途中神崎
 に来た法然上人と遊女宮城の話であるが、有名な歌がない為か、寺が無い為か、さびれている。)

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【1.道標を南に望む 【2.道標を北に望む 【3.道標を南西に望む
 奥(南)長柄橋へ  奥(北)高槻へ  歩道橋階段下に道標
 左、君堂へ】  左右明治の江口街道】  左手前(東)君堂へ】

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【4.道標を北面上部拡大 【5.道標東面上部拡大 【6.道標南面中部拡大
 「君堂参道」とある  左下は当時の  左側「この道を東へ…」
 取敢えず正面とした】  市長の揮毫か】  は下部指差像の補足か】

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【7.道標北面下部拡大 【8.道標西面上部拡大 【9.東門より寂光寺を
 左指差しは東を指す  「昭和四十二年八」  北西に望む、瓦屋根右の
 「300米」は300メートル】  と読める】  北入口迄、380mもある】

写真himg2315
【10.大阪市東淀川区の道標】
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