2.大阪市北区中之島3の道標

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大阪市北区中之島3−4 阪神高速中之島入口東の三ツ辻西部植込み中に東北を正面に建つ
尖頭型角柱 125x30x25p(頂高5p)
N34.692479 E135.493748


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東北面
┌─―――――――――――――┐
│   梅田 十そう     │
│右ハ            │
│   大仁 尼可さ起    │
│       やぐら迄   │
│左り 安治川        │
│       十七丁程   │
└――――――――――――――┘
(「可起」は変体仮名「かき」「尼崎」か)

北西面
┌─―――――――――――――┐
│寛政十一己未年八月建之   │
└――――――――――――――┘
(「巳」と刻むが「己」とした)

南西面
┌─―――――――――――――┐
│(なし)          │
└――――――――――――――┘

南東面
┌─―――――――――――――┐
│(なし)          │
└――――――――――――――┘


(寛政十一(己未)年八月1日とすると、西暦1799年8月31日土曜日となる。)
(『大阪の街道と道標』武藤善一郎、平成11年発行では、177
 『大阪市立博物館研究紀要第三冊』1971(昭和46)年発行では23頁)
(行先の中で「左、安治川やぐら迄17丁」が何処を示すのか、距離が書かれこれが分れば元位置の大きな手掛かり
 となる。やぐらを灯台と見て天保山とすると7kmと余りにも距離が有るのでこれではないとする。「やぐら=櫓」
 で城の櫓でも考えにくい。ネット上で下記の様な資料があり、これかと思うので挙げてみる。
 「享保15(1730)年、蔵屋敷の集まる大坂・堂島川のたもとに、「堂島米会所」が開設された。これは、世界初の
 本格的な先物取引市場…。その日の相場は、櫓や山の上に中継所を設けて暗号式に旗を振って伝え、リレーで日本
 各地に知らせた。」、他に「1km毎に中継…、和歌山・京都へ数分、広島へ40分」ともあるが、この関係の情報
 も得られず、未定である。多分現福島の市場の南辺りになると思われる。
  江戸期の地図等を見ると当地は「筑前橋」の北詰に当り(現筑前橋は150m下流)、西から北に進み田簑橋を渡り
 梅田方面、南西土佐堀川沿いに進み、中之島西端で北に船津橋を渡れば安治川右岸(北岸)、南に端建蔵橋を渡れ
 ば左岸(南岸)にでる。市立図書館デジタルアーカイブの「増脩改正摂州大阪地図全(大阪古地図集成第11図)」
 文化3(1806)年には端建蔵橋が描かれておらず、当道標の1799年8時点では、安治川右岸への案内と出来る。
  依って、ほぼ元位置とした場合、「安治川やぐら」は今の中央卸売市場の南辺りと出来る。奇しくも対岸には
 「大阪電信発祥の地」の石碑がある。)
(現在(2020)の様に三ツ辻西部に建っていたと思うが、左面(南東面)に「左り…」と彫っていない理由は左側
 が見難い状況(建物が有る等)であったと想像する。仕方なく東北面に「左右」を刻むなら、幅の広い石にする
 と思うがやや広いものの窮屈に感じる。道の広さや、人、車馬への影響を考えての上であろう。)

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【1.道標を南西に望む 【2.道標を東に望む 【3.道標を西に望む
 奥、現筑前橋へ  奥(東)肥後橋北詰へ  右奥(西)科学館前へ
 右(西)科学館前へ】  右に、当道標】  そこを北に田簑橋へ】

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【4.道標を西に望む 【5.道標北東面上部 【6.道標北西面上部
 左右をこの一面に  「右ハ」右2行に掛り  「寛政十一…」
 書上げた理由は?】  「左り」は安治川に】  と読める】

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【7.道標北東面上部より 【8.道標北東面下部 【9.道標北西面中部
 下辺が北東面  「梅田/大仁/安治川」  「一己未年八月」
 尖頭型角柱とした】  と右から窮屈に並ぶ】  「己未」は小さく斜に】

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【10.道標北東面下部 【11.道標北東面下部左 【12.道標北西面下部
 方位針、赤が北  「やぐら迄」  「八月建之」
 北東を正面とした】  「十七丁程」】  と読める】

写真himg2312
【13.大阪市福島区の道標】
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