2.大阪市福島区玉川4の道標

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大阪市福島区玉川町4-1-1 野田恵比須神社南角石垣前に南西を正面に建つ
尖頭型角柱 107x24x24㎝(頂高3㎝)
N34.687994 E135.479105


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南西面
┌─――――――――――――┐
│右 なか山あまか崎のさと渡│
│左 御旧跡御坊極楽寺   │
└―――――――――――――┘
(「旧」は旧字の俗字で刻む)

南東面
┌─――――――――――――┐
│左 ふなつ者しなかのしま │
└―――――――――――――┘
(「者」は変体仮名「は」「船津橋」か)

北東面
┌─――――――――――――┐
│ 願主 弓場丁中     │
└―――――――――――――┘

北西面
┌─――――――――――――┐
│右 ふなつ者しなかのしま │
└―――――――――――――┘
(「者」は変体仮名「は」「船津橋」か)


(『大阪の街道と道標』武藤善一郎、平成11年発行では、№600)
(北東面「右なか山あまか崎のさと渡」は「中山」「中山寺」、「あまか崎」「尼崎」、「のさと」「野里渡し」、
 として問題は無かろう。
 大阪府HP「野里渡し」に「明治9年に「槲(かしわ)の橋」という有料の木橋が架けられた」とありそれ以前と
 なる。市立図書館デジタルアーカイブの文化3年(1806)の『増脩改正摂州大阪地図全』では、北東から北浦江村
 (今の鷺洲)に進む道と思われる。現在では尼崎なら海老江が近い様に思うがこの文化三年地図には道が無さそう
 で、明治の17年地図でもほぼ同じに見える事から野里の渡しを使う道以外に無かったのであろう。
  「左御旧跡御坊極楽寺」は道標から、現在「野田城跡」の碑が建つ門前迄わずか80mと短いが問題は無い。
  南東面とその裏側北東面の「ふなつ者し…」は当地点から南へ道なりに続きこれも不都合はない。これ等から、
 ほぼ元の位置のままと考える。(文化三年地図には「ヱヒス」「極楽寺」ともに描かれる。)
  南西面の「極楽寺」の字の大きさや、近地から順に地名を案内していない、「ふなつ者しなかのしま」の様に
 完全に同一表記を用いている、等から寺標代わりで、道案内は二の次に見える。)
(北東面の「願主 弓場丁中」は個人名とかではなく「弓場町」「中(一同等)」と思われ、明治の初め頃迄は町名
 が残っていたと野田恵比須神社HPにある。)

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【1.道標を北東に望む 【2.道標を北西に望む 【3.道標を南西に望む
 奥、八坂神社の東を  右(南西)八坂神社  左奥70m先右折で福島へ
 過ぎ現国道2号へ】  左、70m先右折で福島へ】  黄土色建物の次の辻】

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【4.道標を北に望む 【5.道標南西面拡大 【6.北西70mの極楽寺を
 左の鳥居は  「御旧跡御坊極楽寺」  北に望む、右側
 野田恵比須神社】  が第一目的かも】  「證如上人…」の碑】

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【7.道標北西面拡大 【8.道標南東面下部拡大 【9.道標北東面拡大
 「ふなつ者しなかのしま」  「なかのしま」の  「願主弓場丁…」
 裏と同一は不自然】  「ま」が一部埋る】  と読める】

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【10.大阪市福島区の道標】
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