4.大阪市天王寺区四天王寺1の道標

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大阪市天王寺区四天王寺1−12−8 大江小学校西校門、北側住宅の駐車場に倒置される
尖頭型角柱 144x22x22(頂高6cm)(基部35p高さに含む)
N34.656114 E135.514255


写真himg4016

写真himg4015

下面写真なし

右面写真なし

上面(元東面か)
┌─――――――――――――┐
│   御城 八軒家    │
│右            │
│   生玉 高津     │
└―――――――――――――┘

左面(元南面か)
┌─――――――――――――┐
│   天(王)寺 清水  │
│左            │
│   住吉 さかい    │
└―――――――――――――┘
(( )部は『大阪の街道と道標』より)

下面(写真無)
┌─――――――――――――┐
│(なし)         │
└―――――――――――――┘

右面(写真無)
┌─――――――――――――┐
│(なし)         │
└―――――――――――――┘


(『大阪の街道と道標』武藤善一郎、平成11年発行では、222
 『大阪市立博物館研究紀要第三冊』1971(昭和46)年発行には未記載)
(左面の欠損部分「天」と「寺」の間、一画目の「一」が残り「王」で間違いはないと思う。又、この右側の稜線が
 辻の中央部を向いていた可能性が高いと考えられる。
  行先については左面の「清水」は伶人町の清水寺か清水坂、「住吉、さかい」は疑問も無く、上面の「生玉」は
 生国魂神社、「高津」は高津宮としてもよく、「御城」は言う迄もなく「大坂城」、「八軒家」は天満橋の大川の
 南辺りを示すとして問題は無い。)
(ご主人の話によると「祖父が道路拡張時に遺失するのを残念に思い、関係者に了解の上自宅庭に移設されたとの事。
 当節の事情により駐車場の一隅に仮置きしている。」とお聞きした。又、元の位置は旧市電道より東に分岐する辻
 (現地より北150m)に置かれていたとも説明下されました。)
(現在は倒置されている為、下面と右面が見えず、手で触った感触では何も書かれていないように思えた。この点も
 確認したところ、「立っていた時も書かれていなかった。」と教えて頂いた。)
(元位置を明治の地図で確認すると、現道標のある道が南北に通り、東西の道が交差する四辻には成っているが、西
 は50m程で寺に突当り南折れするしかなく、それも茶臼山に突当り「左、天王寺…」の案内が成立しない。
  そこで大正10年の地図を見ると、一本東の上町筋が拡幅され、北から現五条宮前西交差点に下り、西折れし、現
 谷町筋を通り過ぎ50m西で直角に南折れし、四天王寺前交差点に達しており、そこを市電が通っている。即ち幹線
 道路が付け替えられた事により天王寺を目指すには、元位置の辻では西に進まなければ成らなくなったのである。
  依って、現上面の「右…八軒家…」が東面して立ち北を指示し、現左面が南面し「左、天王寺」は西に大通りを
 50m進み南折れする案内となる。これが一番見易いのは辻北西部に置かれていた場合で
N34.657520 E135.514128
 天王寺区六万体町5−16辺りか、今は直線状に拡幅された谷町筋の天王寺警察署西交差点の北東部としておく。)
(上記の位置推定理由より、建設年代も絞り込まれ、道の拡幅と市電の施設が行われた、明治44(1911)年以降と
 出来る。)

写真himg4019 写真himg4049 写真himg4057
【1.道標を南に望む 【2.道標を南東に望む 【3.道標を西に望む
 奥(南)天王寺駅へ  塀の後ろは、校門  門扉西の道を北150m
 門扉左に寝かされる】  上部が東を向く】  道標元位置へ】

写真himg4042 写真himg4036 写真himg4030
【4.道標左面上部 【5.道標上面上部 【6.道標右面を上部より
 「左、天王寺…」  右側「御城」  見ようとしたが
 欠損「王」とした】  左側「生玉」とある】  指が入る隙間しかない】

写真himg4043 写真himg4040 写真himg4032
【7.道標左面下部 【8.道標上面下部 【9.道標下面
 右「清水」とした  「八軒家」  左が上部になる
 左「さかい」】  「高津」と読める】  文字は無しとした】

写真himg4517
【10.元位置を北西に望む
 東西に市電が通り、手前の
 横断歩道辺りが旧谷町筋か】

写真himg2317
【11.大阪市天王寺区の道標】
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