10.大阪市天王寺区茶臼山町1の道標

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大阪市天王寺区茶臼山町1 茶臼山公園北入口の東側に北を正面に建つ
角柱(元竿部か) 167x24x24p(頭部臍5x10x10p高さに含まず)
N34.65231 E135.512392


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北面
┌─――――――――――――――――┐
│ 義士木像     住吉     │
│(右指差像)観音寺    道   │
│          さかい    │
└―――――――――――――――――┘

西面
┌─――――――――――――――――┐
│ すぐ かう志ん堂 平埜     │
│            道    │
│ ひだり 四天王うじ       │
└―――――――――――――――――┘
(「志、埜、王」は変体仮名「し、の、わ」)
(「だ」は変体仮名「多」に濁点)

南面
┌─――――――――――――――――┐
│ 慶應三卯年      観音寺□□│
│  十月八日建之 世話人     │
│             山野勘七│
└―――――――――――――――――┘

東面
┌─――――――――――――――――┐
│ すぐ 一心寺 安居天神道    │
└―――――――――――――――――┘


(慶応三(丁卯)年十月八日は、西暦1867年11月3日日曜日である。)
(『大阪の街道と道標』武藤善一郎、平成11年発行では、35
 『大阪市立博物館研究紀要第三冊』1971(昭和46)年発行では、27頁)
(上部に臍(ホゾ)が出ている為、元は上部に笠が乗るか、常夜灯の竿部等であったと思われる。)
(北面「義士木像」について、Web上に「観音寺:浅野内匠頭長矩、四十七士のほか萱野三平、天野屋利兵衛等51
 体の木像が伝わっていたが太平洋戦争で焼失。」との記述があり、これを信ずると書かれていても不思議はない。
 その観音寺は僅か西30mにある。
  行先の住吉と堺が観音寺と同じ方向(西)を指し、今では少しおかしいと感じるが明治27年頃の地図を見ると、
 茶臼山の北を南西に下り、天下茶屋へと続く中道筋と呼ばれた道があり、紀州街道に合流している為、案内に問題
 は無いと出来る。
  西面の「かう志ん堂」は天王寺区堀越町2の庚申堂として東を示し良しとする。「左、四天わうじ」はどうか。
 四天王寺を地図で見れば東に位置し間違いかと思うが、西門から入るとするなら「左」が近い様である。
  東面の一心寺は西に70m進み北に折れてすぐの所に現在の入口があり、そのまま北進すると安居天神の南に出
 てこれも案内に不備はない。依ってほぼ元の位置に有ると考える。)
(紀年銘の「十月」の下を「八日」としたが異論のある所かも知れないが「八」は間違いないように思う。可能性と
 して「吉日」等あるが「吉」には見えない。疵と見なして、書かれていないとするのは可能かと思う。
  又、「観音寺」の下読み下し「静鳴」は怪しいとお断わりしておきます。)

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【1.道標を東に望む 【2.道標を南に望む 【3.道標を西に望む
 奥(東)谷町筋へ  奥(南)公園へ  赤塀左が観音寺で
 右、天王寺公園】  街灯左に当道標】  後白い建物が一心寺】

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【4.道標東面上部 【5.道標北面上部 【6.道標西面上部
 「一心寺安」  「義士木像」  「かう志ん堂…」
 と読める】  「観音寺…」とある】  「志」は変体仮名「し」】

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【7.道標東面下部 【8.道標北面下部 【9.道標西面下部
 「…居天神道」  「住吉」  「平埜」「埜」は「の」
 と読める】  「さかい」】  平野郷であろう】

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【10.道標南面上部 【11.道標南面中部 【12.道標南面下部
 「慶應三」  「十月」部  「八日」とした
 卯年と続く】  「月」が見難い】  「日」も見難い】

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【13.道標南面下部右 【14.同左画像処理分 【15.道標上部ホゾ
 「観音寺静鳴」  「蕗?」  常夜灯なら
 「静吹」等も有るか】  ?は口扁に「巴」か】  火袋が乗っていたか】

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【16.大阪市天王寺区の道標】
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