1.大阪市東成区東小橋1橋碑(道標では無い)

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大阪市東成区東小橋1−1−6 環状線玉造駅北ガード下より東70m長堀通南側歩道上に南を正面に建つ。
(西横に二軒茶屋跡碑が建つ)
蒲鉾型板碑 117x39x21p
N34.6574320 E135.533870


写真himg5384

写真himg5385

写真himg5388

写真himg5389

(南面)
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│玉 二軒茶屋          │
│造               │
│      旧跡        │
│名               │
│所 石橋            │
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(東面)
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│寶永八年十二月朔日架橋     │
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(北面)
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│中道黒門町           │
│正互會有志(省略)       │
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(西面)
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│昭和五年十月建之        │
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(寶永八年十二月朔日は西暦1712年1月8日金曜日となる。この年4月25日には正徳に改元されており怪しい。)
(昭和5年は西暦1930年である。)
(『大阪の街道と道標』武藤善一郎、平成11年発行では、20頁
 『大阪市立博物館研究紀要第三冊』1971(昭和46)年発行には、未記載。)
(道案内ではないが、暗越奈良街道の通過点として近世には珍しい石橋があったとの事で載せる。)
(正互會有志の下部三段に渡り「石倉…畑廣吉」29名の名前が書かれている。)
(明治の地図で見ると、南の鶴橋駅東から北に流れる川が書かれ森ノ宮へ向う多分「猫間川」であろうに架かる橋で
 あったと想像できる。明確には読み取れないが橋の西詰に当る四辻南西部になると思われる。
 これを、市立図書館デジタルアーカイブの弘化二年(1845)『弘化改正大坂細見図(大阪古地図集成第14図)』
 で見ると「大和ハシ」とあり、さらに古い「第4図」元禄4年(1691)『大坂大絵図』でも「大和橋」が有る様に
 思える。石橋に成ったのが宝永の頃であったのであろう。只、石碑の「宝永八年十二月朔日」は存在しないので、
 「寛永八年(1632年1月22日木曜日)」や「宝永六年」等を誤写した可能性もある。東成区役所の解説板によると、
 「黒門橋…」「慶安三(1650)年幕命により」としており年代的には、「寛永八年」の方が近い。)
(「名所」より『摂津名所図会』を見たが載っていなかった。が「玉造川」の項で「大和橋の下流猫間川…」の記述
 が見え、橋自体の名は良く知られていたと思えるが、区の解説板とも異なる名称でこれも気になる。)
(西隣に「二軒茶屋跡碑」が建ち、街道の付随的な機能も確認できるようで、一緒に記載する。)

写真himg5380 写真himg5381 写真himg5379
【1.石碑を北東に望む 【2.石碑を北に望む 【3.石碑を北西に望む
 右奥、玉津1交差点へ  後(東西)長堀通  奥高架は環状線
 右から左が旧河川跡か】  碑後に区の解説板】  左側が玉造駅】

写真himg5382 写真himg5387 写真himg5402
【4.石碑を北西に望む 【5.石碑を南西に望む 【6.石碑北の区解説板
 右が当石碑  左面「寶永八年」  「正しくは黒門橋」
 左が二軒茶屋跡碑】  は怪しいと思う】  「慶安三年」等とある】

写真himg2316
【7.大阪市東成区の道標】

【二軒茶屋跡碑】
大阪市東成区東小橋1−1−6 環状線玉造駅北ガード下より東70m長堀通南側歩道上に南を正面に建つ。
(東横に石橋碑が建つ)
蒲鉾型板碑 117x39x21p
N34.674314 E135.533838


写真himg5392

写真himg5393

写真himg5399

写真himg5400

(南面)
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│二軒茶屋跡           │
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(東面)
┌─―――――――――――――――┐
│この道の…           │
│の茶屋が…           │
│の多くは…(下記参照)     │
└――――――――――――――――┘

(北面)
┌─―――――――――――――――┐
│(なし)            │
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(西面)
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│昭和五十二年三月 大阪府    │
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【東面の文面】
この道の両側に明治中頃まで つる屋ます屋の二軒
の茶屋があった 市中から暗越奈良街道を旅立つ人
の多くは ここで見送りと別れを惜んだ
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