1.大阪市東住吉区今林2の道標

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大阪市東住吉区今林2−24−23 平野川の今橋西詰を西に60m北折れし70mの三ツ辻を西へ20mの今林地蔵東部
に北を正面に建つ
(中央卸売市場東部市場の南東部のハズレでもある)
尖頭型角柱 120x30x29p(頂高4p)
N34.638955 E135.544062


写真himg5754

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写真himg5757

北面
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│北八尾街道改修道路標      │
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西面
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│大正貳年五月五日建之      │
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南面
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│ 發起人 仲田恭治郎      │
│     下村豊治郎      │
│     瀧井庄治郎      │
│     関口彌兵衛      │
│     廣澤九兵衛      │
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東面
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│北百済村役場及學校へ六町四拾間 │
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(大正二年は西暦1913年である。)
(『大阪の街道と道標』武藤善一郎、平成11年発行では、195頁
 『大阪市立博物館研究紀要第三冊』1971(昭和46)年発行には、未記載。)
(wikiに「大阪市東住吉区桑津付近で竜田越奈良街道から分岐し、東へほぼまっすぐ延び、東大阪市大蓮でもう一つ
 の北八尾街道と合流する道」とあるが、大正10年の地図を見る限りそれと分かる道が無い。当地を通る道をその
 道とするなら、北百済村新在家の北(今里筋杭全交差点)から今林(当地)、平野川を渡り川沿い南西に正覚寺の
 西で北東に分岐し衣摺、村中を南東に進み八尾街道に合流し、大蓮を経て八尾に続く道が見えるが、ほぼ東へまっ
 すぐの道ではない。が上記の経路を「北八尾街道改修道路」と呼んでいたなら、ここに有って不思議ではない。
  明治の地図と変わったのは、杭全交差点から今林集落の西に新しい道が付けられた点だけであるが、今林の人々
 にとっては、役場と小学校が近くなり喜ばしい事であったと想像できる。只、現在では百済貨物ターミナルで道は
 残っていない。)
(学校は今の「市立育和小学校(当時は住吉郡北百済尋常小学校か)」住吉区杭全4丁目を指すと思われ、道標東面
 にある6町40間(726m)を、昭和10年地図上での推定距離7町52間(856m)と比べると、差があり過ぎる。
  理由は不明だが直線距離を示したものと思う。役場は学校の南東隣に記され直線距離では変わらない。)

写真himg5750 写真himg5779 写真himg5753
【1.道標を南西に望む 【2.道標を南東に望む 【3.道標を東に望む
 道標西が今林地蔵  左(北)面が道路側  突当右、平野川今橋へ
 20m西は四辻】  右後ろは地蔵物置か】  同左、東部市場側道へ】

写真himg5770 写真himg5784 写真himg5780
【4.道標東面上部 【5.道標北面拡大 【6.道標西面拡大
 「北百済村役場及…」  「北八尾街道」  「大正貳年五月五日」
 と読める】  はこの前の道か】  と読める】

写真himg5772 写真himg5765 写真himg5783
【7.道標東面下部 【8.道標上部を南東に望む 【9.道標南面下部
 「學校へ六町四拾間」  左側が北面で  発起人
 は直線距離か】  道路に面する】  五名が並ぶ】

写真himg5766
【10.今林地蔵を南に望む
 道案内等は
 無さそうであった】

写真himg2318
【11.大阪市生野区の道標】
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