4.大阪市都島区東野田町2の道標

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大阪市都島区東野田町2−9−23 国道1号線京橋西交差点南50m四辻北西部歩道上に西を正面に建つ
角柱 136x31x30.5p
N34.698147 E135.532815


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写真himg5934

写真himg5935

写真himg5860

西面
┌─――――――――――┐
│左 京みち      │
└―――――――――――┘

南面
┌─――――――――――┐
│     な(ら)  │
│右 大和       │
│     のざ(き) │
└―――――――――――┘
(( )部は『大阪の街道と道標』より)

東面
┌─――――――――――┐
│文政九丙戌年九月吉日 │
└―――――――――――┘

北面
┌─――――――――――┐
│右 大坂       │
└―――――――――――┘


(文政九(丙戌)年九月1日とすると、西暦1826年10月2日月曜日となる。)
(『大阪の街道と道標』武藤善一郎、平成11年発行では、134
 『大阪市立博物館研究紀要第三冊』1971(昭和46)年発行では、24頁。)
(作者の意図が良く分る道標である。三方に「京」「大坂」「大和」と大書することで、ここが重要な地点である事
 を示したのではなかろうか。
  又、「大和」だけでは分かり難いと思い「なら」を付け加え、その途中に大坂の人々が良く参った「のざき」は
 必須であろうとした。と勝手な解釈である。)
(『研究紀要』には所在地として都島南通り都島区役所前とし上部に像が載る写真が掲載されているが、現在位置を
 明治の地図で見ると、当地は京街道から古堤街道が分岐する三ツ辻として描かれ、南は寝屋川のすぐ北を流れる川
 (鯰江川か)が流れていたようである。国立国会図書館デジタルアーカイブ『天保摂津国絵図』では東成郡野田村
 と思われ村の南東部で京街道より分岐し、寝屋川右岸(北岸)を東に進み、川を越え今福村、放出村より河内国に
 繋がる朱書の道が描かれている。
  『研究紀要』にいう「都島区役所前」に一時期有ったとしても、現在は、ほぼ元の位置ではないかと思う。)

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【1.道標を東に望む 【2.道標を北に望む 【3.道標を南西に望む
 奥、京橋東商店街へ  40m北、東西に1号線  左奥、京阪の駅舎
 右奥、JR京橋北口へ】  右上(東)環状線】  右、1号線南沿いの道】

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【4.道標北面拡大 【5.道標西面拡大 【6.道標南面拡大
 「右 大坂」  「左 京みち」  「右 大和」と大書し
 と読める】  は間違いないか】  下部は小さくかな書き】

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【7.道標東面上部 【8.道標東面下部 【9.道標南面下部
 「文政九丙戌年」  「丙戌年九月吉日」  「なら」
 と読める】  と読める】  「のざき」か】

写真himg2313
【10.大阪市北区の道標】
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