7.大阪市住吉区遠里小野5の道標

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大阪市住吉区遠里小野5−3−23 熊野街道、安楽寺西山門の南側に西を正面に建つ
尖頭型角柱 135x22x22p(頂高4p)
N34.600375 E135.495617


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写真himg6601

写真himg6602

西面
┌─――――――――――――――――┐
│      安孫子 平野郷    │
│右八尾街道            │
│      八尾         │
└―――――――――――――――――┘

南面
┌─――――――――――――――――┐
│明治三十五年十二月建之 大阪府  │
└―――――――――――――――――┘

東面
┌─――――――――――――――――┐
│(なし)             │
└―――――――――――――――――┘

北面
┌─――――――――――――――――┐
│左 阿倍野街道 住吉 天王寺   │
│右 八尾街道  堺 大鳥 岸和田 │
└―――――――――――――――――┘


(明治三十五年は、西暦1902年である。)
(『大阪の街道と道標』武藤善一郎、平成11年発行では、353B
 『大阪市立博物館研究紀要第三冊』1971(昭和46)年発行には、未記載)
(南横に解説板があり、それによると10m北への移動となり、図によると三ツ辻北東部に置かれていた様である。
 明治の地図を見ると、三ツ辻から八尾街道が東に分岐しており線路に突当り北に迂回して踏切を渡り、現在(2021)
 の長居東辺りへ続いている。尚、南北の道は「阿倍野街道」と書かれている。
 【解説板の文言】
 この道標は 熊野街道(阿倍野街道)と八尾街道との分岐点(現在の遠里小野五丁目三番)現在地より南の辻角に
 建てられていたものです。)
(元位置は上記の通りと思われるが、設置方向が現西面「右八尾街道…八尾」が南面(90度反時計回り)していたと
 考えられる。この時、現北面の「左阿倍野街道」は北を指し問題は無い。がここから余談、他の道標ででも書いた
 覚があるがなぜ「左」を右側に、「右」を左側に書くのであろうか。近世の道標では有り得ず、明治の官吏が机上
 で原稿を作成し発注しただけの、なおざりさを感じるのであるが。)

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【1.道標を南に望む 【2.道標を東に望む 【3.道標を北東に望む
 左端に当道標  右(南)大和川へ  左奥(北)熊野街道を
 奥、遠里小野小学校へ】  左後、安楽寺山門】  住吉大社方面へ】

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【4.道標北面上部 【5.道標西面上部 【6.道標南面上部
 「左阿倍野街道」  「右八尾街道…」  「明治三十五年十二月…」
 「右八尾街道」とある】  と読める】  と読める】

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【7.道標北面下部 【8.道標西面下部 【9.道標南面下部
 「住吉 天王寺」  「安孫子 平野郷」  「大阪府」
 「堺 大鳥 岸和田」】  「八尾」と読める】  と読める】

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【10.道標を南東に望む 【11.解説板を東に望む 【12.元位置を北東に望む
 右電柱後ろに  「…熊野街道(阿倍野街道)  電柱左側辺りが
 金属製の解説板】  と八尾街道の分岐点…」】  元位置と図示される】

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【13.大阪市住吉区の道標】
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